大人の階段は下れない
そうだ、私の残りの人生すべてを懸けて日本中の杉の木を伐採する旅に出よう。
そんなとりとめのない妄想してしまうほど花粉症に精神がやられている。
そうだ、京都行こう。
花粉症について一本記事が書けるほど思うところはあるが、せめてnoteを書いている時くらいはスギ花粉のことを忘れたいため、この話はここでおしまい!
さて、世間ではホワイトデーがいつものごとくバレンタインデーに比べ格段に注目されないままひっそりと幕を下ろした。
ちなみに私は夫から、さり気なくリクエストしていた甘納豆を無事にゲットした。
私は今年、どうしてもホワイトデーに甘納豆を欲していた。
何故だかは分からないが、私の細胞が甘納豆を強く欲し、甘納豆以外の甘味は一切受け付けないという強固な姿勢を示していた。
仕方なく私は3月に入ると早々に夫の前でごく自然に「どうしたことか甘納豆が食べたい。甘納豆以外はもう愛せない」などと呟いてみせた。
夫は当惑したように「え?なんで甘納豆?そんなに好きだっけ?」と首を傾げつつも抜け目なく、美味しい甘納豆の検索に勤しんでくれていたようだ。
そんなに好きだっけ?と問われても私だって困惑している。
ほんの数年前のホワイトデーにはオシャレな洋菓子を所望していたというのに一体全体私の細胞たちよ、どういう宗旨替えだい?
そう言えば、私が最近ひっそり楽しんでいるとっておきの宵のスイーツといえば干し柿で、これまたいやに渋いセレクトである。
前回の実家帰省の折、自然派農法に傾倒しつつある我が妹が家に持ち帰ったどこぞのこだわり干し柿を何気なく食べて以来、私は干し柿の奴隷となった。
凝縮された自然の甘味、トロッとした夕焼け色の果実。
まさに地味滋養。
干し柿は濃い緑茶にも、薫り高い紅茶にも、香ばしいコーヒーにも合う万能の甘味である。
弾力のある果実をじっくり齧ると強く重い甘みが疲れ切った体に染み渡る。
しっかり甘いのに、夜更けの洋菓子に覚える背徳感はそこにはない。
ひたすらに心身を慰撫されるような優しい甘さ。
子どもの寝ている隣、ほの暗い照明の中食べる干し柿の美味いこと。
時々スマホのライトを干し柿に当て、オレンジ色にとろりと輝く断面の色を楽しむ。
暗い部屋の一角でスマホの強い光を齧りたての干し柿に当て口元を緩ませる女。
傍から見たら恐怖だろう。
私にはまだ冷凍保存している干し柿が少なくともあと20個ある。
その事実だけで明日からも花粉に負けず頑張って生きていこうと思うのだ。
…ん?
何の話をしていたっけ?
そうだそうだ、干し柿に始まり甘納豆。
よおく思い返してみれば、事の始まりはかまぼこだったかもしれない。
ある日親戚のおうちでお酒と共にふるまわれたかまぼこの、お醤油とワサビをちょっとだけつけたその美味しさに電流が走った。
そのテーブルには美味しいお肉も、出来立てのエビの塩焼きも新鮮なお刺身だって乗っていた。
それなのに、私はその時かまぼここそが世界で一番お酒に合うおつまみだと確信した。
つい昨日まで、お酒のお供はから揚げだったのに。
私はこの日、大人への階段を多分30段くらい一気に駆け上ってしまった。
登ったら二度と戻れぬその階段。
30段駆け上った先で、私は自分の来た道を振り返り一抹の寂しさを覚えた。
思えば遠くへ来たもんだ…
かまぼこで30段飛ばしした大人の階段を、干し柿でまた15段、甘納豆でさらに10段ほど進めた。
スタバの抹茶フラペチーノを真冬に楽しんだあの日には、もう二度と戻れない。
切なき若さに涙にじませ摘まむ甘納豆の美味しさよ。
図らずももう少しで短歌になりそうななかなか味わい深い一文となってしまった。
皆様に新しい趣味として短歌をお披露目する日もそう遠い未来ではないかもしれない。
突き進もう。
未来へ。