鈍感な人が最強説。
たまに鈍感な人って最強なんじゃないかと思う時がある。
嫌味でもなければ卑下しているわけでもない。
ただただ、鈍感力は人生を豊かに、そして、最強な生き方なんじゃないかと思う時があるのだ。
私の身近にいる鈍感力最強人間は母親だ。
何が鈍感かというと、あまりヒトが何を考えているか深く考えずに行動しているのだ。母と打算という言葉あまりに不釣り合いである。
これだけを聞くと世間知らずで思考の浅い人間のように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。
当たり前だが、母なりの考えはあり、相手のことを思って行動している。
むしろ誰よりも人に優しく、人のために行動できる人である(そんなところを尊敬している)。
じゃあ、何が鈍感なのかというと、細かいことを気にしていないという点と起こったことに引っ張られないという点だ。
ある時、私と母で言い合いになったことがある。
あるコトをあるヒトにやるかやらないかを考えているとき、母はやってあげた方が喜ぶと言うのだが、私は逆に気を遣うんじゃないか?有難迷惑になるんじゃないかとアレコレ考えていた。
そんな私に母は一言、「私がやってもらえたら嬉しいから喜ぶはず!」と。それ以上でも以下でもない言葉を投げかけてきた。相手がどう思うかなんて細かいことは考えていないのだ。「悪いことをしようとしているわけじゃないし、喜ばれなかったらその時はその時だし」と私の悩みは一掃された。
こういったことが結構あるのだ(母は俗に言う天然という性格)。
逆に心配になることもあるのだが、そんなことは母は微塵も気にしていない。
ある時、そんな母が入院することになった。
すると、どうだろうか職場の多くの人がお見舞い来てくれたようだ(下世話な話、見舞い金の金額をきけばどれだけ多くの人が来たのか分かった)。
また、退院の際にも退院祝いが届き、顔を見に来る人も少なくなかった。
私は母のすごさを改めて感じた。
もちろん鈍感であることが全てでないことは言うまでもないが、鈍感力が母の強みであると、子供である私は感じている。
母以外にもいわゆる鈍感な人たちに出会うと最強だなと思う瞬間がある。
その人たちに共通するのは、自然に気にしないということを貫いているということ。いや、気にしていないというより存在していないということなんだろうなと感じる。存在しなければ気にすることもないという理論である。
私はどちらかというと気にしすぎなくらい考える性格でその上、ネガティブでもある。だから、気にしないように意識する必要がありそこには多くの労力を費やす。鈍感であればと羨ましく感じることもある。
かといって、この世の中が鈍感な人たちが生きやすいかというとそれは別である。社会からは、「気が利かない人」「何も考えていない」「責任感がない」などと評価されることも少なくない。
鈍感力を上手く使って生きている人はそんな評価も気にならないのかもしれないが、直接的にネガティブな言葉をぶつけられたり、距離を置かれてしまう人たちもいるのも現実だ。
そういう意味では社会的には気遣いのできる敏感な人が好まれる傾向があるとも感じる。だけどそんな社会に思うのは社会に認められる生き方が一人の人間として豊かに、自由に、らしく生きているのかということ。
ないものねだりになのかもしれないが、私は鈍感に生きている人たちの方が一人の人間として豊かに、自由に、らしく生きているなと思わずにいられない。
同時に私の理想とする鈍感な生き方を実践している人たちは、「こんな風に考えることもないんだろうな」と、またどうでもイイことを気にしてしまう。鈍感を羨ましがらない自分になるまでにはもうしばらくかかりそうだ。