天使と猫

 ものすごい轟音が空から降ってきた。どうやらヘリコプターがすぐ近くまできているようだ。
 芽衣(めい)はベランダに出て、愛猫の小太郎を抱きしめたまま薄墨色の空を見上げた。小太郎は茶色い毛を逆立てて震えている。何か恐ろしいことが起こっていると感じているのだ。
 この家に来て十四年間、小太郎は一年に一度、動物病院での健康診断の時だけしか外に出ることはない。「変化」とか、いつもと違う何かがものすごく苦手な小太郎にとって、この状況はどんなにか大きなストレスだろうと思うと、芽衣は小太郎が可哀想でならなかった。
 一昼夜続いた豪雨で近くの川が氾濫し、あっという間に家の一階が水没して、逃げることができなくなってしまった。この古い家は芽衣の祖父母が建てた家で、今回の大雨で屋根が盛大に雨漏りし始めている。
 もっと早い段階で避難すればよかったと芽衣は自分を責めていた。祖母が運悪く体調をくずして寝込んでいて「避難所には行きたくない」と駄々をこねるので、どうしようかと迷っているうちに、家の前の道が川のようになってしまったのだ。とても避難所まで行くことなどできない。しかも、電気が止まって、頼みの綱のスマホも電池切れだ。
「パパとママがいてくれたら…」
 芽衣は恐怖に震えながら両親を思った。
 祖母と両親と四人暮らしなのだが、たまたま両親は銀婚式の記念にハワイ旅行に旅行中だ。
「おばあちゃんのこと頼んだわよ」
 スーツケースを持ち上げた母に言われて「大丈夫だよ。私、来年は社会人なんだからね!」と胸を叩いた三日前が、はるか遠い日のように思えた。
 もしかしたら死ぬかもしれない…。恐怖が背中を電流のように駆け抜けていく。
 三日前まで人生で「重要だったこと」が羽のように軽く感じられた。就職活動、卒論、ダイエットの効果がなかなか出なくて憂鬱になっていたこと、別れたばかりの元カレがさっさと新しい彼女を作ってムカついていたことなど、すべてバカバカしく思える。
 あんなことで悩むなんて、なんという愚か者だったのだろう。生きているだけで、それは奇跡のように幸せなことなのに。
 その時突然低い雲の間から、巨大な金属の塊が姿を現した。救助隊のヘリコプターだ。
 芽衣は窓から顔を出して必死に手を振った。
「おばあちゃん!もう大丈夫だよ。レスキュー隊の人が助けにきてくれたよ!」
 布団の上で数珠を握りしめている祖母に声をかけた。
 ヘリコプターが家の上空で止まり、中からオレンジ色の制服を着たレスキュー隊員がロープをつたって降り始めた。その体が強風に煽(あお)られて揺れている。
「救助隊です!」
 部屋の中に入ってきた隊員を見た芽衣は膝から崩れ落ちて涙があふれた。
「ありがとうございます!祖母は足が不自由なんです!」
 ヘリコプターの轟音に、声がかき消される。
「大丈夫です!」
 レスキュー隊員は祖母を軽々と抱いて自分の体にしっかり固定した。
「怖いでしょうけど、大丈夫ですからね」
 祖母に話しかける彼の優しい笑みに、芽衣の恐怖は消え去った。オレンジ色の制服の背中に羽が生えているような気がした。
 この人、天使だ…。
 祖母は隊員とともにワイヤーで吊られてヘリコプターに引き上げられた。
そしてすぐさままた隊員が降りてきたのだが、小太郎を見て困った顔をした。
「すみません。規則でペットはヘリに乗せられないんです」
 芽衣は絶望した。仔猫なら服の中にすっぽりと入れて一緒に乗せてもらえるかもしれないが、小太郎は八キロ以上ある肥満猫でとても服の中には入らない。
「十歳を超えた老猫なんだから、なんでも好きなものを好きなだけ食べさせていいじゃないの」と、祖母がおやつをあげ過ぎた結果こんなことになってしまった。それを強く止めなかった自分も悪い。今更だが、ダイエットをさせるべきだったと悔やまれた。
 しかし、もし無理やり乗せたとしても、小太郎が大暴れして大変なことになるかもしれない。
「わかりました。祖母だけ、お願いします。わたしはこの子を残してはいけません。絶対にできません。この子と一緒にここに残ります」
レスキュー隊員は数秒押し黙り、そして深くうなずいた。
「わかりました。でも、必ず助けにきますから待っていてください」
 轟々(ごうごう)と川の流れる音が聞こえ、雨脚は強いままだ。
 芽衣は怖くてたまらなかった。しかし、小太郎をおいていくという選択肢はない。
 小太郎は、芽衣が学校帰りに見つけた野良猫で、哺乳瓶で猫用ミルクをあげるところから育ててきたのだ。
 その頃、芽衣は毎日いじめにあっていた。その辛い日々を支えてくれたのは小太郎だった。毎日しょんぼりと肩を落として帰ってくる芽衣を玄関まで出迎えて、抱っこをせがみ、ずっとそばに寄り添って癒してくれた。
 本音で愚痴をこぼしたり、悔しさをぶちまけることができたのは、世界中で小太郎だけだった。
 猫や犬は時として親、兄弟、友人、恋人、配偶者にさえできないことをやすやすとやってくれたりする。犬や猫にしかできない癒しや、心の空洞の埋め方があるのだろう。小太郎は芽衣にとって、ずっと一番の親友で、弟で、大切な家族だった。
 ヘリコプターの轟音は空の彼方に消えた。もうすぐ日が暮れる。完全に陽が落ちたら、月も星もない空の下で、停電しているこの一帯は真っ暗になってしまう。
 芽衣は心細さに涙が出てきた。
 どのくらい時間が経ったのか、家鳴(やな)りのようなギシギシという音がして、雨漏りがどんどんひどくなってきた。建て替えの計画が進んでいたところだったので、雨漏りしてもバケツを置いてしのいでいたのだが、もうそんなことでは追いつかないほど今回の大雨は古家に打撃を与えたようだ。
「吉野さーん!」
 階下で声がした。階段をのぞきこむと、もう三段目まで水がきている。さっき祖母を助けてくれたレスキュー隊員が手招きしていた。
「下まで降りてきてください。大丈夫ですから!」
「すぐ行きます!」
 芽衣は小太郎を強く抱きしめた。下で待ち構えているオレンジ色の制服が神々しく輝いてみえた。
 階段を降りていくと、エンジン付きのゴムボートが玄関の前に横付けされている。
「乗ってください」
 恐怖心は、レスキュー隊員の笑顔でかき消された。
 完全に川と化した家の前の道路をボートで進みながら、芽衣は全身から力が抜けていくのを感じていた。
「猫ちゃん大丈夫ですか?」
 レスキュー隊員が小太郎を覗き込んだ。
「怖がってますけど、大丈夫です。迷惑かけてすみません」
「僕も猫と暮らしてるので、お気持ちわかります」
 その時、いきなり雷に打たれたような感覚に襲われた。
 そうだ。私、救助隊員になろう!
 この一年、芽衣は何十もの会社説明会に足を運んできたが「この会社に入りたい」とか「この仕事がしたい」と、一度も思わなかった。就職試験を何社も受けて内定をもらったものの、未来を思い描こうとしても心は少しも浮き立たず、毎日会社に行きたくないと思いながら電車に乗っている自分しか想像できなかった。
 そして自分はなんてダメな人間なのだと、自己嫌悪を感じる日々だったのだ。
 しかし今、何かがパカリと開いたような爽快感に満たされた。
「私、救助隊員になるよ、小太郎」
 小太郎の耳に唇をつけてささやいた。自分の声が喉からではなく、どこか深いところから出てきたように感じた。
「あんたのおかげで、私の未来が決まったよ」
 小太郎は、くすぐったそうにブルルっと頭を振った。

 あの日から今年でちょうど十年。
 芽衣は福岡市消防局の救助隊員として何度も被災地に入った。怯えている被災者を見るたびに心に浮かぶのはあの豪雨の中で震えていた自分と小太郎、そいてオレンジ色の制服を着た天使だ。あの時助けてくれた隊員は今消防局の本部にいる。
 芽衣が消防署に就職して数年後に、たまたま話すチャンスがあった。
 「猫と一緒に助けていただきました」
 そう言うと彼は「ああ、あの時の!」と笑顔を見せた。
 被災地に救助活動に向かう時、芽衣は必ず小太郎の毛を入れたペンダントを身につけている。

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