事故的なキス
家に帰り着くと、門の前にかかりつけの病院の車が止まっていた。毎日午前中に一度医師が往診して、午後には看護師が体調をチェックすることになっている。
「凪君、看護師さんに挨拶してくるよ。君は……悪いけど……」
言い淀む秋臣に最後まで言わせず、叶人は車を降りると足音を盗んで二階に上がった。
「できるだけ人に会わない」
智夏を演じてもらう上で、最初に決めた約束事の一つだった。一つの嘘は千の嘘を産む。これ以上ややこしいことを増やしたくはなかった。
寿美子の部屋に行くと、看護師が帰り支度をしていた。
「お母様、今日は顔色も良いですね。お孫さんのおかげで免疫力が上がったんじゃないかしら」
秋臣は曖昧に笑って見せて、玄関で看護師を見送った。
採血後のメディパッチをさすりながら、寿美子は清々しい笑顔で息子を振り仰いだ。
「秋臣、母さんは今とても幸せなの。あなたを一人残して行くことだけが心配でたまらなかったんだけど、あんなにいい息子がいるんだもの、大丈夫ね。あなたは一人ぼっちにはならない。それが本当に本当に嬉しいのよ。安心してお父さんのところに行けるわ」
秋臣の胸の中にざわざわと風が立った。いつの頃からかまるで自分の一部であるように肌に張り付いていた孤独の存在を、今ほど強く感じたことはなかった。
智夏は自分の存在さえ知らない。母がいなくなれば、家族と呼べる人間は誰一人いないのだ。
秋臣はこみ上げる想いをグッと飲み下した。母がやっと得られた平穏を絶対に奪ってはならない。孤独という重荷は一人で背負わなくてはならないのだ。今までと同じように……。
「智夏を呼んでくるよ。一緒にアイス食べよう」
秋臣は二階に駆け上がった。ノックをしたが返事がなく、そっとドアを開けると叶人はA4の紙の束を手にして一心不乱に読みふけっている。
「あ、それはダメだよ!」
秋臣は慌てて駆け寄ったが、叶人がくるりと体の向きを変えて虚しく宙をつかんだ。
「これ、遠坂さんが書いたの? もしかして小説家目指してた?」
「やめてくれよ! 若気の至りだ」
必死で取り返そうとする秋臣を素早くかわしながら、叶人はベッドの上に立ち上がり原稿を声に出して読み始めた。
「ゆっくりと陽が落ちて、空一面天から赤い絵の具を撒き散らしたような茜色に染まり始めた。その時道の向こうに、入日を背にしてゆっくり歩いてくるシルエットが見えた。少し疲れたような歩き方、うつむいた顔」
「ほんとに、やめてくれ!」
ベッドに上がって原稿に手を伸ばした途端バランスを崩した。
気づくと秋臣はベッドの上で叶人の体の上に覆い被(おおいかぶ)さり、首筋のホクロが目の前にあった。透き通るような肌にポツンとペンで印をつけたような小さな黒いホクロは妙になまめかしい。荒い息が顔にかかった。
原稿を胸に抱いた叶人と、膝で体を支えながらそれを取り戻そうとする秋臣がもつれ合ううちに唇がかすかに触れ合った。電流が背骨に沿って走り、手の力が抜けてしまった。
秋臣が原稿を放してベッドから立ち上がると、叶人はゆっくりと体を起こした。
「遠坂さんでも、エリートコース以外の道を考えたことあるんだね。全ての願いが叶ってきた人かと思ってたよ」
秋臣は思わず苦笑した。叶った夢など、自分にあるだろうか。
「燃やしておけばよかったなあ。すっかり忘れてたよ」
「遠坂さんの文章、俺好きだよ。燃やすんだったらこれ、俺にくれよ。」
「いいよ」
もう原稿などどうでもよかった。唇にはまだ叶人の唇の余韻が残っていて身体中の神経がその一点に集まっているかのようだった。
「おばあちゃん、お父さん、できたから見に来て!」
呼ばれて寿美子の部屋に入ると、目に飛び込んできたのは美しい一幅の絵のような襖だった。
「まあまあまあ、綺麗! 智夏君たら、なんて器用なの?」
長い時間をかけて叶人が選んだのは、薄いグレーの地に、何種類もの花々が描かれたもので、花の間を蝶や鳥が飛び交っている。鮮やかな色で描かれたシートは華やかでありながら、どことなく古典的な絵柄で、ベーシックな色ばかりの部屋が、一気に明るくなった。
本当に一人で襖の張り替えなんかできるのだろうかと秋臣は危ぶんでいたが、失敗したら失敗したで、それもきっと楽しい想い出になるだろうとも思っていた。しかしその仕上がりには文句のつけようがなかった。
「気に入った?」
叶人は誇らしげに胸を張った。
「もちろんよ! まるで違うお部屋みたいになったわね。ありがとう」
寿美子は心の底から嬉しそうだったが、叶人はそれよりもっと嬉しそうだ。
「おばあちゃん、ほんとにほんとに気に入ってくれた?」
無邪気に寿美子の顔を覗き込む叶人の愛らしさに、秋臣の心は温かく満たされていく。
「よかったね、母さん。息子は気が利かないけど、孫が器用で気が利いてて」
「そうね」
寿美子はいたずらっぽく笑った。
「本当に智夏君は優しい子ね。こんな孫を持って幸せ。幸せ過ぎてもう何も欲しいものがないわ」
胸に両手を重ねた寿美子に叶人は後ろから抱きついた。
「僕もこんなおばあちゃんを持って幸せだなあ」
言葉とは裏腹に、その顔がどこか寂しげなのを秋臣は見逃さなかった。叶人が時折見せる素顔は、いつも秋臣を戸惑わせる。
彼は本当はどんな人間なのだろう。しかし興味を持ったところできっとわかることはない。この時間はひとときの幻なのだから…。