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『神の絵筆」

第四話 小袖の行方 

 あたしはお父っつあんに盗まれた小袖を絶対に見つけると心に決めた。
 まずは江戸中の古着屋をあたってみよう。お父っつあんがあれをすぐに金に替えるとしたら、古着屋が一番手っ取り早い。
 とは言え床店(とこみせ)を構えている古着屋だけでも、千軒以上。四脚の竹籠に古着を入れて売り歩く「竹馬古着屋」も数え切れないほどいる。
その数を思えば気が遠くなるが、どうしてもどうしてもあの小袖を取り戻さなくてはならないのだ。とりあえず江戸中の古着屋をしらみつぶしにあたってみよう。
 まずは小袖の柄を色付きで描こうと思い立った。言葉で説明してもわかってもらえないだろうし、何回も同じ説明を繰り返すのは難儀だ。
 礬水(どうさ)を引き終えた紙を前にして筆を取った瞬間、自分でも驚くほど小袖の細かい文様までが鮮やかに目に浮かんだ。あたしはただまぶたの裏に立ち現れたものを写し取るだけでよかった。
「ああ、これだ!」
 描き終えた絵は、おばば様の小袖と寸分違わぬもので、そこに何か見えない力が働いたような気がしてならなかった。

 最初に向かったのは、浅草田原町の古着市。小袖を描いた画帳を抱えて床店をひとつひとつ訪ねていく。
「この柄の小袖に見覚えはありませんか?」
「いや、ないねえ」
 日暮れ時まで歩き回ってこのやりとりを繰り返したが小袖を買い取ったという店はなかった。パンパンに腫れた足を引きずりながら家に帰り、「ちょっと休んでから何かお腹に入れよう」と思ったところまで覚えているが、目が覚めた時はもう朝日が上がっていた。
 
 大急ぎで身支度をして牛込改代町(うしごめかいたいちょう)に向かった。古着屋は、大体ひとつ所(ところ)にまとまっているので、そこは本当にありがたい。
しかし軒を連ねるたくさんの床店(とこみせ)を一軒一軒訊いて廻ったが、皆首を振るばかりだった。
 もしかしたらお父っつぁんは江戸ではなく、駆け落ちした女と一緒に暮らしている土地に持っていってしまったのだろうか。その女への土産にしたなんてことはなかろうか。
 頭をよぎった思いをあたしは強く打ち消した。野辺送りもせずに逃げてしまったくらいだから、お父っつぁんはよほど金に詰まっていたのだ。すぐに売り払って金に換えたに違いない。
 江戸以外であんな高価な着物が右から左に売れるはずはないから、きっと江戸内の古着屋に持ち込んだに決まっている。
 あたしは沸き上がる不安と痛む足を引きずりながら、翌日は日本橋の富沢町、翌々日は元浜町へと足を運んだ。けれど小袖を見たという人さえもいなかった。

 今日行くところは神田川沿いの柳原だ。古着屋はここが一番多い。
黒衿をかけた黄八丈に袖を通しながら、気持ちを新たに「今日こそは!」と我が身を奮い立たせた。
 柳原の通りはたくさんの人でにぎわっていた。侍、職人風の男、下使(したづかい)らしき女を連れた町家の娘。私の心が勝手にそう思わせるのか、皆楽しげに見えてならない。
 道の両側に並ぶ大小の床店は、いずれも掛棹(かけざお)に両袖を通した着物を屋根の下の横木にずらりと吊り下げている。これなら着物全体がよく見えるし、客も選びやすかろう。
 どの店も百枚以上の着物を隙間なく並べているが、もしあの小袖があるならば、ひと目で分かるはずだ。あんなに美しい着物がそんじょそこらにあるはずはない。
 あたしは片っ端から店に入って行き、主(あるじ)に声をかけて画帳を見せた。しかし、答えは皆同じだった。
「こんな上物は見た事ねえなあ」
 まわっていない店はあと五、六軒ほどしか残っていない。ここで見つからなければ、一体どこを探せばいいのだろう…。江戸中を歩き回って、竹馬古着屋に声をかけて行くしかないのだろうか。泣きたい気持ちで、掛竿の奥に声をかけた。
「ごめんください…」
「あいよ。何か気に入ったものがあったかい?」
「いえ、あの…、この小袖を探しているのですが、売りに来た人はいませんでしょうか」
 主は画帳をのぞき込んで大きく首を振った。
「そうですか…。お邪魔して申し訳ありませんでした」
 詫びを言って店を出たところで、「あっ、姉ちゃんちょっと待ちな!」と、背中に声を掛けられた。
「そういやあ何日か前、あの店のおやじが、お公家さんかお大名の奥方が着るような上物を手に入れたとかって言って喜んでたぜ。ひと儲(もう)けできそうだってな。ほれ、あそこ、お侍が立ってるあの店だ。行ってみな」
 あたしは、お礼もそこそこに、主が指差した店に向かって走った。
「すみません!この柄の着物に見覚えはございませんでしょうか」
 店に飛び込むなり画帳を差し出した。
 店の主は目を丸くしてあたしの顔を見て、それから画帳に目を移した。
その目が「ああ、あの着物だ」と言っていた。
「ここにあるんですね?!」
 嬉しさのあまり胸が飛び跳ねて、声まで裏返ってしまった。
「確かにうちにあったよ。だけど、次の日にもう売れてしまったんだ」
 あたしは力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
「そんな……そんな」
「あの小袖を探しているのかい?」
「あれは、もともとあたしのおばば様の物だったんです。でも、お父っつぁんが勝手に持ち出して…」
 もう少し後なら、せめて一刻でも経ってからなら、身内の恥を見知らぬ相手にしゃべったりしなかっただろう。あまりの落胆があたしの口を軽くしたのだった。
「そうかい、そりゃあ気の毒なこったなあ」
 主は気の良さそうな人で、心から同情してくれているようだった。
「遊び人風の男だったが、あれがあんたの父御(ててご)かい。おばば様もさぞかし気落ちしてなさるだろう」
「おばば様は…死にました」
  それがぽろりと口から出てしまったのは、主の声の優しさがあたしの甘え心を誘ったからだった。主はますます憐れみの色を濃くした眼差しを向けた。
「なんてこった…。じゃああの小袖は母親の形見ってことじゃないか。それを売っぱらうなんざ、なんという罰当たりな親不孝者だ。なんとかしてやりてえが、もうあの小袖はこの江戸にもないだろうよ。長崎から来たっていう男が買っていったんだ」
「長崎! 西国の長崎ですか? そんな遠いところに…」
 もう立ち上がる力さえなかった。
「阿蘭陀(おらんだ)さん相手に商売をしている商人(あきんど)で、馴染みの丸山遊女にくれてやるとか言ってたなあ。長崎の丸山遊郭と言やあ、国で一番遊女の衣装が上等だってことで有名だ。吉原も京の島原遊郭も衣装じゃ勝ち目がないっていうから、てえしたもんさ。しかし、天下の丸山遊郭と言えども、あの小袖ほどの品はそうそうあるめえ。いったいおばば様はどこであんな上物を手に入れたんだい?」
「どこかの大名のお姫様が、あたしのご先祖様に下さったものです」
 畏れ多くて茂姫様の御名前は出せなかったが、温かい言葉をかけてくれた主に小袖の謂(いわ)れを聞いてほしくなった。もう二度とこの手には戻らない美しい小袖の物語を…。
「あたしのおばば様のそのまたおばば様が、お姫様の侍女をしていたので形見分けに下さったと聞きました。あの小袖はおばば様とあたしのおっ母さんの花嫁衣装だったんです」
「そうかい、そうかい…。知らぬこととは言え、そんな大事なもんを売ってしまってすまなかったなあ。まあ、ここに座って饅頭でも食っていきな」
 主は、まるで自分に非でもあるかのように身を屈めて、床几(しょうぎ)をすすめ、あんこの入った饅頭を手に乗せてくれた。
 あたしはすなおに従って饅頭をひとかじりした。これから家までの長い道のりを歩き出す気力などなかったから本当にありがたかった。
「美味いかい?」と主に訊かれて、「はい」と答えたが、本当は味なんぞまったくしない。鼻の奥からこみあげる塩っ気の強い涙の味しかしなかった。

「お父っつあんは本当にひどい。おばば様の形見を売ってしまうなんて」
 阿栄さんにことの顛末(てんまつ)を話しながら、それでもまだ小袖を本当に失ったという実感は湧いてこない。
「長崎の丸山遊郭ですって。もうどうにもならない…。おばば様は成仏できるかしら」
 ちびちび酒を飲みながら黙って聞いていた阿栄さんが、ゆっくり顔を上げた。
「お寿美ちゃん、丸山遊郭だってわかってるのなら、取り返しに行ったらどうだい?あたしは吉原の遊女さんをたくさん描いてきたけれど、遊女さんは心根の優しい情に厚い女が多いよ。あの子袖をもらった遊女さんを探し出して訳を話せば返してくれるんじゃないかい?」
 思ってもみないことだった。言われたとたん、暗闇に光が射しこんだようにぱっと目の前が開けた。
そうだ! 長崎の丸山遊郭に行って取り返せばいいんだ。江戸を離れたって、誰も文句を言う人もいないし、困る人とていない。もうあたしを縛るものは何もないのだ。
「阿栄さん、あたし、西国に行って小袖を取り返す!」
 胸には希望しかなかった。
 しかしその時のあたしは知る由もなかったのだ。どんなに苦しい運命が待ち受けているかを。
 そしてその時のあたしには、夢にも思い描くことなんてできやしなかった。人が一生知ることのない世界を見ることになるなんて……。

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