雷鳴の中で
マグカップの中の琥珀色の液体に、口をすぼめて息を吹きかける叶人の横顔はどこか浮かない顔だった。
なかなか冷めないコーヒーに手こずっているのを見かねて、秋臣はもう一つマグカップを持って来た。それに叶人のコーヒーを移し、湯気が出なくなるまで行き来させてから、手渡した。
「もう飲めるよ。それから…今日はありがとう」
叶人はキョトンとした顔を向けた。
「何が?」
「一人で心配するのと二人で心配するのとでは、こんなにも違うものなんだな。いてくれてありがとう」
叶人はコーヒーに目を落とした。
「おばあちゃんがいなくなったら……あんたには誰もいなくなるんだな……」
秋臣の胸の奥に常にある想いを容赦無く言い当てた彼はさらに言葉を重ねた。
「本当に…一生息子に会えなくていいの?」
秋臣は無理に笑顔を作ってうなずいた。
「智夏は今幸せなんだ。僕の存在も知らないだろうし。今更彼の人生をかき回して混乱させるようなことはしたくない」
叶人はコーヒーを一口すすって首を傾げた。
「何で智夏が幸せだって分かるんだ?」
「え?」
その時窓にバシャっとバケツで水をかけたような音がした。横殴りの雨が庭の樹々を今にも折れそうなくらい揺さぶっている。
「智夏が今幸せかどうかなんてわかんねんじゃん。養父のことを実の父親だと思い込んでて、父親がゲイだって知らないから幸せなわけ?」
秋臣は一言も返すことができなかった。言われてみれば、自分は智夏が幸せだと信じて生きてきた。何の根拠も証拠もないのに。
「真実を知らない息子を混乱させたくない気持ちはわかるけど、何でも決めつけるなよ。幸せって、決まった形があるわけじゃないじゃん」
秋臣の胸の中に黒い水煙のようなものが立った。もしかしたら自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。もし智夏が今幸せじゃないとしたら、それは間違いなく自分に責任がある。
叶人が不意に立ち上がり、感情が読み取れない声で「もう寝る」と言って、そのまま二階に上がってしまった。
一人残された秋臣は布団に入ったものの、日付が変わっても眠ることができなかった。酒の力を借りても、睡魔は全く訪れない。
十五年前の自分の選択が間違っていたのかもしれないという思いが頭をもたげて、いても立ってもいられなくなった。
離婚する際、秋臣はすべて真理子の望む通りにした。親権も真理子に譲り、智夏と会わないという約束も交わした。それがどんなに理不尽であっても大事なことを隠して結婚したことに負い目があったのだ。
自分の選択は本当にそれは正しかったのだろうか?
秋臣はとうとう布団の上に起き出して、枕元のスタンドライトをつけた。淡いオレンジ色の光を背景にして自分の影が黒々と浮かび上がった。その時闇夜に閃光が走り、バリバリっという轟音が鳴り響いたかと思うとスタンドライトの灯りが消えた。庭に目をやると常夜灯も消えている。
「遠坂さん!」
二階から悲鳴のような声が聞こえた。秋臣はハッとして手探りでスマホを探したが見つからない。
「遠坂さん!」
再び叫び声が聞こえ、秋臣は部屋を飛び出した。常夜灯も隣家の玄関灯も月明かりもない漆黒の闇の中、手先の感覚だけを頼りに二階に駆け上がった。
二階の部屋にたどり着くと、また雷光が疾(はし)り、床にうずくまった叶人の姿が青白く浮かび上がった。
「どうした?」
叶人に駆け寄るとその体が激しく震えている。
「電気が消えたんだ。つけっぱなしで寝てたのに」
「停電らしい。大丈夫か?」
「雷と暗いとこがちょっと苦手なだけ」
その様子は「苦手」という域をはるかに超えている。そっと叶人の手を握ると、強い力で握り返してくる。その手は氷のよう冷たかった。
「多分近くに雷が落ちたんだと思う。気分が悪そうだけど大丈夫か?」
「大丈夫に決まってるじゃん」
言葉と裏腹に叶人は歯の根が合わないようで、ガチガチと歯を鳴らして震えている。
秋臣は叶人を抱きしめて背中をさすった。すると腕の中でふっと叶人の体の力が抜けた。
「5歳くらいの時、施設の年上の奴に倉庫に入れられて鍵をかけられて、一晩過ごしたんだ。今と同じ、すごい雷と大雨で,叫んだけど、誰も来てくれなくて……」
「幼い子供になんてひどいことを。怖かっただろう」
「朝、ションベンもらして倒れてるのを職員に発見されちゃってさ、ハハ」
叶人は自嘲的な笑い声を立てたが、その体はまだ小刻みに震えている。
またすぐ近くで轟音が鳴り響き、叶人がちいさな叫び声を上げて秋臣にしがみついた。
「よしよし、大丈夫だ。僕がそばにいる。何も怖くない」
秋臣は叶人の頭を胸に抱え込んだ。
「雷が鳴り止むまでここにいてくれ」
「どこにも行かないよ。ずっとこうしてるから安心しなさい」
まるで生まれたばかりの小さな命を抱いているような愛おしさに、胸が締め付けられた。秋臣は叶人の頭をそっと撫でた。
「かわいそうに……」
叶人は秋臣の胸に額を強く押し付けた。
哀れと愛おしさが胸の底から突き上げ、骨も折れんばかりに強く抱きしめた。
天が怒りをぶちまけているように稲妻が空にジグザグの光跡をいくつも描き、その青い光の中で潤んだ瞳が秋臣を見上げていた。
立て続けに雷鳴が轟いた時、叶人の腕が秋臣のワイシャツの胸元を掴んでグイと引き寄せた。柔らかい唇が秋臣を迎え、熱い舌が口の中に入ってきた瞬間、電流のようなものが背骨に沿って頭のてっぺんまで走り抜けた。
まるでそれが合図でもあったかのように蛍光灯の電気が煌々(こうこう)とついて闇がはらわれた。
秋臣は後ろから引っ張られたかのように立ち上がって、部屋を飛び出した。しかし、どんなに振り払おうとしても唇には甘い吐息と舌の感覚が残って消えなかった。