心配性の次女

 うちの次女は、超が十個くらいつく心配性である。ほとんど障害と言っていい。
 特に「私と長女と猫」に対する心配は常軌を逸していて、夜中に、私と長女が生きていることを確認するために髪を引っ張ったりする。本当に迷惑でしかない。
 猫に毒だというチョコレートを食べた時など、食べ終わったら間髪を入れず全神経を集中して床を這いずり回り、かけらが落ちていないかをチェックするという念の入れようだ。
 そして心配の対象は私たちだけに留まらない。もしかしたら全人類(悪人以外)の心配をしているのではないだろうかと、私は疑っている。
 次女は漫画家(姉妹漫画家キリエ)で、取材のためにしばしば消防署に行くことがあるのだが、取材中に救助要請が入って救急車や消防車が署を出るところに居合わせようものなら「もしかしたら私のせいで、出るのが一秒遅れて要救助者が救えなかったかもしれない」などと、家に帰ってからくよくよする。 
 次女は自分のことでも常に最悪のことを考えるらしい。ものもらいができても、腹痛になっても、とりあえず「死ぬかもしれん」と思うそうだ。
 数ヶ月前、次女は何度か鼻血が出たので耳鼻科にすっ飛んで行った。
医者からあっさり「アレルギーですね」と言われたらしいが、それでは納得せず「腫瘍が心配なんです」と食い下がった。
「あ、そういう方には、これを見てもらったら一発なんで」
 医者はパソコンを使って、鼻の奥を画面に映し出してくれたという。
 次女の自分自身に関する「なんだかんだで死ぬかもしれん」という心配の理由は、命に対する執着ではない。次女は自分の命への執着は実に淡白なのだ。
 仕事に対する強すぎる責任感と、長年の夢(野良猫や野良犬を救う動物王国を作るという夢)を頓挫(とんざ)させたくないという強い思いが「死ぬかもしれん」という心配になるらしい。
 だからちょっとで体に不調が起こると、連載中の二つの漫画をどうするかを細かく決め、動物王国を作る夢を長女に実現してもらうための具体的な方法を必死で考えるそうだ。
 次女は鼻血が出た時から、医者に死なない証拠を見せてもらうまでの間、万が一に備えて、起こり得るあらゆることを想定し、頭の中で冷静にシミュレーションしていたという。
 そういえば、彼女はもう何年も前から「終活」をしていると言っていた。
 次女を見ていると「疲れるだろうなあ」と心底思う。私なんぞ、この年になってもまだ終活を始めていない。
 実は私も相当な心配性で、腰痛が起こったり、咳が出たり、だるかったりすると「なんだかんだで死ぬかもしれん」と思うところは次女と一緒である。しかしそれは「苦しかったり痛かったりするのが怖い」「入院したくない」「美味しいものが食べられなくなる」「東京に遊びに行けなくなる」といった自己中な心配ばかり。
 「誰の役にも立たないダメ人間だったなあ。ちゃんと修行できなかったから、また何十回も生まれ変わって厳しい修行をさせられるんだろうなあ」などと嘆くのが関の山なのである。
 親子でもこれほどまでに違うのだ。
 それにしても、人生のラストの準備って、難しいとつくづく思う。
「死は前よりしも来らず。かねて後ろに迫れり」(徒然草)
 春夏秋冬が順序通りに来る四季と違って、死は常に人の背後にいて、順序などおかまいなしにいきなり襲いかかってきたりする。
 いつなんどき後ろから死神が髪の毛を引っ張るかわからないのだから、一日一日を大切に生きよう。そう強く思う。しかし、それが続かないところが私のたくさんある欠点の一つなのである。今日も今日とて夏バテを理由にのらりくらりと過ごしてしまった。反省せねば!
しかし、反省してもいつだって二日後には忘れている。
 次女が私のように(いや、私の半分でも)怠け者だったら、人生はもう少し楽になるだろうに……。
 時々そう提案してみるのだが、返ってくる言葉はいつも同じである。
「お母さんみたいに怠けていたら夢は叶わない!」
  

いいなと思ったら応援しよう!