叶人、初めて親の話をする
「今日は稽古だから出かける」
朝、出勤する秋臣とすれ違いざまに叶人がささやいた。週三日、叶人は舞台の稽古で午後数時間家をあける。夏期講習だという嘘を寿美子は何の疑いもなく信じていた。
一日の仕事を終え、地下駐車場に停めてある車に乗り込んだ時に、秋臣はふと叶人にLINEを送って見た。
「今、どこ?」
すぐに既読がついた。
「稽古場」
「迎えに行こうか?」
少し時間を置いて、稽古場の住所が送られて来た。
「了解」と返すと、既読は着いたが返事はなかった。
ナビに従って目的地近くまで来たがどこに止めていいかわからない。全く土地勘がない下北沢の街は、秋臣の生活圏内と随分趣(おもむき)が違っている。若者の街、サブカルチャーの街、演劇の街と言われるだけあって、街全体が生き生きとした躍動感があり、既成のものの中に収まらない自由な風が、車の中にまで吹き込んで来た。
レトロな古着屋、アメリカの田舎町にありそうなダイナー。古い短編映画の中に迷い込んだような不思議な感覚に包まれた。
その時、商店街のアーケードの中から叶人が走って来た。
「お疲れ」
かけた言葉に叶人は何も返さず、ふき出した汗をTシャツの裾をまくって拭いた。
秋臣はエアコンの風量を上げた。
「凪君、悪いんだけど、ちょっと僕のマンションに寄っていいかな? 郵便物がたまってると思うから」
叶人はTシャツをパタパタ揺らして風を入れながら「どうぞ」と興味なさげに答えた。
マンションの駐車場に車を止めるなり、叶人が珍しく驚きの声を上げた。
「え? ここ?」
何の変哲もない三階建ての白い建物は、六畳間と狭いダイニングキッチンにバストイレ付きの単身者用のワンルームマンションだ。
「タワマンとか住んでるのかと思った」
「車で待ってる?」
「ついてく」
叶人はさっさとドアを開けて外に出た。
集合ポストいっぱいに詰まった郵便物を抱えて玄関ドアを開けると、叶人は開口一番「質素……」とつぶやいた。
会社に近いという理由だけで借りたこの部屋には、ベッドとスチールラックと折りたたみ式のテーブルだけで、テレビさえ置いていない。ただ寝るだけの場所だ。
部屋全体に湿気を帯びた密度の濃い空気が充満していた。秋臣は急いで窓を開け、エアコンをつけて風量を最大にした。大きな音と共に吹き出し口から出た空気は生ぬるく、少し不快なにおいがする。
「冷蔵庫の中の物、捨てるの忘れてた」
庫内にはミネラルウォーターが三本と野菜ジュースが一本、あとはポン酢と絹ごし豆腐が一丁入っている。
秋臣が豆腐を生ゴミ入れに捨てようとした時、叶人の手が横から伸びて「賞味期限一昨日切れたばっかりじゃん」とパックをつかんだ。そしてフィルムを剥がし、ポン酢の小瓶をつかんでテーブルの前に座って、秋臣に手を伸ばした。
「スプーン」
秋臣がスプーンを手渡すと、叶人はまるでプリンでも食べるように口の中に入れていく。
「何でこんなに質素なの? 金持ってんだろ?」
唐突な問いに、秋臣は返答ができなかった。そんなことを考えたことさえなかった。
確かに自分のためにはあまり金を使わないようにしてきた。できるだけ多く息子に金を残したかったからだ。
十五年の月日が流れて、いつの間にか質素な生活が習慣になってしまったらしい。しかし考えてみると、自分の存在さえも知らされていない息子に受け取ってもらえる可能性は低い。今までやってきたことが急に虚しく愚かしく思えてきた。
秋臣は思わず自嘲の笑いを漏らした。
「貧乏性なんだよ」
叶人は「ふうん」と言って、それ以上何も訊いてはこなかった。
「この赤ん坊、誰?」
叶人の視線がスチールラックの上のフォトフレームで止まった。
「もしかして息子?」
「そうだよ」
「似てるね」
「そうかな」
もしそうなら嬉しいと秋臣は素直に喜んだ。いつか街ですれ違った時に息子だと気づくことができるかもしれない。
「最近の写真はないの?」
「元妻に頼んだけど、断られた」
その時は真理子を恨んだ。しかし時間が経つにつれて、それが真理子の優しさなのだと気づいた。会えない息子に未練を持っても辛いだけだ。父親であることは忘れて人生をやり直してほしいと願ったのだろう。
「でもさあ、よかったじゃん。もし最近の写真があったら、絶対おばあちゃんに見せてただろう? そしてら俺を息子にするなんてできなかったよな」
「ああ、そうだね。確かに……」
その言葉に秋臣は少しだけ救われたような気がした。
会話はそれ以上続かず、狭い部屋を沈黙が埋めようとしていた。エアコンの送風音、叶人がミネラルウォーターを飲む喉の音、そして窓の外から聞こえてくる蝉の暑苦しい鳴き声。 しかし不思議と気まずさは感じなかった。
「稽古は楽しかったか?」
沈黙をやぶるためだけに訊いたのだが、まるで父親のような質問で少し気恥ずかしくなった。
叶人は「楽しいというか……」と首を傾げた。
「これが最後の舞台かと思うと、稽古の一回一回が貴重に思えるよ」
叶人の横顔に寂しさの色は見えないが、その声には何か引っかかるものがあった。
「本当に役者辞めるつもり?」
叶人はそれには答えず豆腐を大きくすくって口に入れた。
「君はどうして役者になろうと思ったの?」
叶人はミネラルウォーターを一口飲んで、しばらく黙り込んだ。
「有名になったら……親が会いに来てくれるんじゃないかと思って……」
想像もしていなかった答えに、今度は秋臣が声を飲んでしまった。
「会いたかったわけじゃない。最初は会いたかったけど、だんだん憎しみに変わってった。有名になってもし親が訪ねて来たら今度はこっちから捨ててやろうと思ってさ。復讐したかったんだよ」
怒りなのか憎しみなのか、小さな炎がチラチラ燃える瞳は、それまでの叶人の印象を大きく変えた。
「でも最近……あんたに会ってからちょっとだけ迷いが出てる」
叶人の視線が再びフォトフレームをとらえた。不意に怒りと憎しみが消えて、代わりに苦悩が瞳に滲んだ。
「もし俺の親が遠坂さんみたいに俺のことを思って捨てたんだとしたら……。何か事情があって手放したとしたら……。生まれたばかりの俺の写真を見ながら毎日会いたいと思ってるとしたら……」
言い終えた瞬間、パッと表情が変わり、叶人は歪んだ笑みを浮かべた。
「ありえないけどね。用事終わった? 早く帰ろう」
叶人は立ち上がって、豆腐の空きパックを流しの三角コーナーに叩き込んだ。