ママの恋人
ママの恋人は、誰が見てもイケメンだ。だけど本人はそのことに気がついていないかのように、謙虚で控えめで、少しも傲慢なところがない。
気遣いが細やかで、一緒にいる時に何気なく言った言葉を覚えていて、「この前陽毬(ひまり)ちゃんが食べたいって言ってたスイーツ、たまたま見つけたから」と、絵土産にくれたりする。
その店は予約制で「たまたま見つけた」はずはないのに、それを言わないところもいい。
生田さんママより十七歳も年下だけど、彼ならきっとママを幸せにしてくれるだろう。ママには絶対に幸せになって欲しいのだ。
パパが急死した時、私は六歳。ママはまだ四十歳だった。この十六年間、会社経営に命をかけて自分の楽しみなんか少しも考えずに生きてきた。外食産業の中でもトップクラスに入るチェーンレストランをパパなしで経営していかなければならなくなったから、家のことはお手伝いさんに任せて、ママは朝から晩まで働きづめに働いた。
そんな多忙な中でもなんとか時間をやりくりして運動会や学芸会などの学校行事にはほとんど出席してくれた。今思うと、それはとても大変なことだっただろうと思う。
ママが生田さんと出逢ったのは一年前。ママが経営しているお店で、彼は週四日ホールスタッフをしていた。物腰の柔らかさとその容姿に惹(ひ)かれて、彼目当ての女性が何人も通っていたらしい。
ある日、そのお店で食事をしていた高齢女性が喉に食べ物をつまらせてしまって大騒ぎになった。生田さんは即座に女性の背中から腕を回すと、すばやくみぞおちを圧迫し、喉に詰まったものを吐き出させた。救急車が到着したのはそれから十分以上も経ってからで、生田さんがいなかったら助からなかったに違いない。ちょうどその店に来ていて、一部始終を目撃したママは「奨励金」という名目で彼に臨時ボーナスを支給した。
その出来事からしばらく経って、ママ宛にお礼状と小さな絵が送られてきた。それは聖母マリア様のように描かれたママの絵で、送り主は生田さんだった。
プロの画家になるというのが生田さんの夢で、ママは応援の気持ちを込めて彼の絵を数枚買ってあげた。それがきっかけになって、ごく自然に二人のおつきあいが始まったのだ。
生田さんに出逢って、ママは突然花のように綺麗になった。いつもほとんどすっぴんだったのに、丁寧にお化粧をするようになったし、白髪混じりのひっつめ髪も栗色に染めてすごく若返った。
だから年の差はあっても、二人はとてもお似合いなのだ。だけど、たった一つだけ、二人の結婚に影を落としていることがある。
我が家のアイドル、黒猫のルルだ。
なぜかルルだけは、どうしても生田さんに懐かない。懐かないどころか、生田さんが近づくと、イカ耳になってシャーっ!と威嚇する。ルルは人懐っこい性格で、大嫌いな動物病院のスタッフさんにさえそんなことをしたりしないのに…。
生田さんは「僕の匂いが嫌いなのかも」と言ってコロンを変えたり、おもちゃやおやつでご機嫌をとったり、本当に涙ぐましい努力をし続けているのだけど、どうしてもルルは心を開かない。
「娘を持つ父親の心境なのかな」と生田さんは笑ったけど、もしかしたらそれは当たっているかもしれない。きっとルルは生田さんが嫌いなんじゃなくて、ママの恋人になる男全てが気に入らないのだ。
実は誰にも言えないけど、私だって生田さんを家族に迎えることにかすかな抵抗がある。
生田さん以上に素敵な人はこの先現れないだろうと思っているのに、心からこの結婚を喜べないのだ。理由は自分でもはっきりとは説明できない。たぶんママが私だけのママじゃなくなってしまうからだろう。そのモヤモヤした気持ちが、真っ白い和紙にポトリと落とした墨汁のように心の中に漆黒のしみを作っている。
だけど、そんなことは絶対にママには言えない。パパが死んでしまったあと、あんなに幸せそうなママを見たことがないのだから。
私は来年大学を卒業したら家を出て行くと決めている。寂しいけれど、みんなにとってそれが一番いいのだ。和紙に落とした墨汁が、もしかしたらどんどん広がってしまうかもしれない。それだけはどうしてもどうしても避けなくてはいけないことなのだ。
結婚式を三ヶ月後に控えて、私とママは二人で京都に一泊旅行をすることになった。秋の京都を歩きたいと、ずっと前から口癖のように言っていたママの願いをやっと叶えられるのだ。
ルルも連れて行くつもりだったけど、ママが生田さんに預けようと言い出した。
「ルルは二人きりになったらなつくかもしれないでしょう? 生田さんは家族になるのだからどうしても仲良くなってほしいのよ」
私はそれに反対できなかった。心配ではあるけれど、ルルと生田さんが仲良くなるには、それが一番いい方法かもしれない。私とママが帰ってこないことがわかったら、心細くなって生田さんとの距離が少しは縮まるだろう。
万が一ルルに何か異常があったら、かかりつけの動物病院に連れて行ってもらうよう生田さんにくれぐれもお願いして、私とママは東京駅から新幹線に乗った。
京都のホテルに着くと、ママは日頃の疲れが出たのか「ちょっとだけ寝るね」と言って、気絶するように眠ってしまった。
私は早速スマホを取り出してルルの様子をチェックした。外出する時はいつもペットカメラをセットしておくのだ。ルルはリビングで、お気に入りのソファーに丸くなっている。たった数時間しか経っていないのに、もう会いたくてたまらなくなった。
そこに生田さんが現れて、ルルにそっと手を伸ばした。案の定ルルはイカ耳になって「シャー!」と威嚇する。こんな時の顔は本当に可愛げがなくてまるで別猫のようだ。
それでも諦めずに、生田さんはチュールをルルの口元まで持っていった。一番好きなホタテ味だ。だけどルルはまた「シャー!」で返した。かわいそうに生田さんはしょんぼりして部屋を出て行ってしまった。きっと傷ついたに違いない。
「生田さん、ごめんなさい」
申し訳ない気持ちで思わず声になった。
すると、寝息を立てていたママがパッと目を覚ました。一瞬ここがどこだかわからないようで、ぐるりと部屋を見回した。
「ああ、京都にきてたんだわね。夢を見てたわ。」
「疲れてるんだから、もう少し寝たら?」
「そんな、もったいない。せっかく陽毬とゆっくり過ごせるのに」
「独身のママとの旅行はこれが最後だもんね」
言葉にした途端、寂しさが背中から胸へ灼(や)き抜けて、やけどみたいに痛かった。ママが結婚したからといって、母親であることに変わりはないのに、まるで根無し草になってしまうような不安を感じるのはどうしてだろう。
「ママ……幸せになってね」
「うん、ありがと。だけど、これって普通は逆よね」
クスッと笑ったあとで、ママは突然真顔になって、ベッドの上で正座をした。
「今まで陽毬には、本当に申し訳ないことをしたと思ってる。パパが死んだ時、本当は会社をたたみたかった。でも従業員とその家族のことを思うと、どうしてもできなかったの。陽毬はまだ小さかったのに、一杯我慢させてごめんね。立派な大人になってくれてありがとう」
そう言うと、ママは両手をついて深々と頭を下げた。
「やだなあ、そんなこと言わないでよ。私なんか何も我慢してないよ。我慢ばかりしてきたのはママだよ。自分のことなんて二の次、三の次にして。だからこれからはいっぱい幸せになってください!」
鼻の奥がツンとして涙がこみ上げてきたけど、それを力づくで飲み下した。一粒でも許したら、きっと涙が止まらなくなる。
「ママ、八坂神社行こう! あの近くに抹茶白玉ぜんざいの美味しいお店があるらしいよ。今日は仕事のことは忘れてよね。このメニュー、お店に取り入れようとかはなしだから」
「はいはい、わかりました」
ベッドから滑り降りたママは、ドレッサーを覗(のぞ)き込んで口紅を塗った。とても綺麗で、身体中から小さな金色の花びらがこぼれ出ているようだ。恋をすると、本当に女の人は綺麗になるのだと納得した。
「ママ、すごく綺麗だよ。その辺の若い女性なんて敵わない。キラキラしてるもん」
「本当に? もうすぐ還暦だけど」
「大丈夫!十年前よりずっと綺麗だよ。生田さんとお似合いだから自信持っていいよ」
私の言葉に、ママは大輪の花が咲き匂うような笑顔を見せた。
今、ママは本当に幸せなんだ……。
「いつか、生田さんも一緒に三人で旅行しようね。ルルも連れて」
「そうね! ルルが生田さんに懐いてくれるといいのにね。ルル、どうしてるかしら。生田さんと少しでも仲良くしてくれてたら嬉しいな。あ、ペットカメラ見てみよう」
ママはウキウキした様子でスマホを開いた。
すると、最初は笑顔だったママの顔からみるみる血の気が引いた。さっきまで輝いていた瞳がガラス玉のように光を失っている。
「え? ママ、どうしたの? ルルは大丈夫?」
慌ててのぞき込んだスマホの画面に映っていたのは、リビングのソファーに座る男女二人だった。男性の膝にのった女性が彼の首に手を回している。彼が生田さんかどうかはわからない。生田さんであるはずがない。
その男性が生田さんであることを、脳が認めるのに数秒かかった。彼にしなだれかかっている女性に見覚えがあった。確か、半年くらい前に入った大学生のホールスタッフだ。一度会っただけだけど、人目をひく美貌とすらりと伸びた綺麗な足が印象に残っている。
カッと頭に血が上ったかと思うと、今度はいきなり潮が引くように血の気が全部足元に下がって、寒くなった。今までの人生で誰かを殺したいと思ったのは、これが初めてだ。
ママの顔を見る勇気などなかった。
「陽毬ちゃん……旅行中止してもいい? 今から東京に帰りたいんだけど」
ママの声は見知らぬ人のようだった。
私は黙って頷いた。
京都駅のホームで新幹線を待つ間、ママは「あ、お土産買わなくちゃ」とつぶやいてキオスクの方に歩き出した。
「お土産? 誰に?」
「生田さんに。お留守番してもらってるんだから」
声を失った。あの映像を見ても、ママは別れる気がないのだろうか。浮気を許せるくらい、生田さんを愛しているということ……?ママの気持ちが全くわからない。
新幹線に乗り込むと、ママは真っ先に生田さんにLINEを送った。
「今から帰ります。大事な仕事が入ってしまったので」
私ならいきなり帰って二人を驚かすのに……。優し過ぎる。きっとママは、あのことをなかったことにしたいのだ。
胸の中がねっとりと粘りつくような濃い血の色に染まっていく。心も体も濁った赤に汚される気持ち悪さに、身震いした。
「ああ、そうだ。陽毬ちゃん、生田さんに会っても、何も言わないでね」
「でも……だって……」
「お願いね」
ママの言葉の中にある何か冷たくて硬いものに気圧(けお)されて、「わかった」と答えた。本当は言いたいことや訊きたいことがたくさんあるのに。ただ唇を噛んで拳を握りしめるしかなかった。
ママはただ黙って窓の外を流れる茜色の空を見るともなく見ていた。
タクシーが家の前に着くと、玄関から生田さんが飛び出してきた。
「おかえりなさい。疲れたでしょう?」
私は返事もせず、ママの横顔を盗み見た。ママは顔色が少し悪かったけど、落ち着いた表情でかすかな笑みさえ浮かべている。
「お留守番ありがとう」
生田さんにかけた声も普段と変わらず優しかった。ただ、視線は合わせていないように見えた。
リビングは綺麗に掃除がしてあって、大きな花瓶には花まで飾ってある。レストランで契約している花屋さんに持ってこさせたのだろう。いかにも生田さんらしい気遣いだ。
私はソファーを見やった。さっきここに座っていた二人の体温や湿った息づかいが生々しく立ちのぼってくるような気がして吐き気がした。
その時、一体どこにいたのかルルが「ニャア」と可愛い声をあげながらリビングに入ってきた。
「ルルちゃんはどこにいたの? いつもリビングにいるのに」
ママが背中を撫でると、ルルはゴロンと寝転がってお腹を見せた。
「さっきまでここにいたんだよ。僕と一緒に」
いつもの甘い笑顔で生田さんが言った。しかしあの女性が現れてから、ルルは一度もペットカメラには映っていない。
私はぎゅっと胸が絞られるような痛みを感じて声も出なかったが、ママは唇の片方だけ上げて、小さく笑った。
「おかしいわね。ルルの姿は全然見えなかったけど」
「え?」
その意味が全くわからない生田さんはキョトンとして首を傾げた。
ママの人差し指がまっすぐに棚の上のカメラを差した。みるみる生田さんの顔が引きつり、醜くゆがんだ。
「あの…違うんだ。ただちょっとふざけていただけで。そんな関係じゃない」
ママは無言で婚約指輪をはずし、青ざめた生田さんの手にのせた。もう恋人でも婚約者でもなく、「会社の上司」の顔だった。
「そんな、ま、待って。話を聞いて。誤解しないで」
「誤解なんて少しもしていませんよ。お元気でね」
つけ入る隙のない毅然とした態度に、生田さんは唇を噛んで背中を向けた。彼が玄関から出て行く音が聞こえた瞬間、ママの瞳から光が消えて虚ろになった。
私がそっと背中をさすると、ママはハッとしたように振り返って凛然と微笑んだ。
「ごめんね! 心配かけちゃって。大丈夫よ。ママは大丈夫だから」
「うん、わかってる」
ママは大丈夫に決まっている。パパの死を乗り越えて、いろんなものと戦ってきたんだもの。こんなにも美しくて強い人の人生に、あんな人が深い影を刻印できるはずがない。せいぜい、表面にかすり傷をつけただけだ。時間が経てば跡形もなく消え去る浅い傷を。
「ねえママ、あの絵捨てちゃっていい?」
暖炉の上に飾られた生田さんの絵を見ながら顎をしゃくると、ママはさも不快そうに肩をすくめた。
「もちろん。今すぐ捨てたい」
花瓶に入った薔薇の絵は奥行きも物語もなく、何も語りかけてこない。
「私……あの人の絵、最初から好きじゃなかったんだ」
「実は、ママも」
思わずママの顔を見たその時、二人同時に笑ってしまった。
ママが、息が漏れるような力ないためいきを吐いて、私の腕の中のルルをそっと撫でた。
「きっとルルにはわかってたのね……」
窓から差し込む西陽を跳ね返して、琥珀色の瞳がキラリと光った。瞬きをする隙をつくように、ルルがニヤリと笑ったような気がした。