いよいよ芝居の幕が上がる
車は都会を抜け、海沿いの道にさしかかった。夏色に変わった空は指先まで青く染まりそうで、コバルトブルーの海と競うように輝いている。
「これ、飲んでいい?」
返事も待たずに叶人(かなと)は、カップホルダーに差し込んだ秋臣の飲みかけのペットボトルに手を伸ばして口をつけた。透明な液体がぐびぐびと音を立てながら喉に流れ込んでいく。
上下する喉仏を目の端にとらえていた秋臣は慌てて急ブレーキをかけた。信号が赤にかわったことに気づかなかったのだ。車は横断歩道の上に半分乗っている。見渡す限り歩いている人がいないから油断したというわけではなく、明らかに叶人に気を取られたせいだった。
「ごめん!」
叶人は「あ〜あ」と情けない声を出した。前につんのめった拍子にミネラルウォーターをもろに浴びてしまったのだ。
「すまない。濡れちゃったね。Tシャツ、そこの紙袋の中にあるけど着替える?」
「いいよ、めんどくさい。着くまでには乾くだろ」
喉を伝う液体、張り付いたTシャツに透けた肌……。禁断の木の実をそれと知らずに見せつける叶人はどこまでも無邪気で無防備だ。
「智夏はどんな人物設定にする?」
叶人はシートを倒して大きく伸びをした。
「LINEで教えてもらった情報だけじゃ自信ないからさ」
言われて初めて秋臣は自分の中にいる一人息子が、二歳にもならぬ幼子のままだということに痛みを感じた。
「母が安心するような子を演じて欲しい。明るくて素直で、優しくて勉強もスポーツもできて、友達も多い」
「典型的ないい子ちゃんってことだね」
その言葉に含まれる小さな棘を秋臣は敏感に感じ取った。この気だるそうな、表情に乏しい若者が、典型的ないい子を演じられるものだろうか。にわかに不安になってきたが、もう引き返せない。
「できそう?」
そう問いかけても、叶人はまるで聞こえなかったかのように答えない。
「あのさ、週に三日くらい出かけてもいい? 八月末にちっちゃな舞台があって、それに役もらってるんだ」
「構わないよ。こっちで塾の夏期講習を受けることにすればいい。X大志望ということで」
「まだ十七歳なのに大学決めてんの?」
「高校に入学した時点で決めてる子多いよ。僕もそうだったし」
「もしかしてあんたもX大?」
「うん」
叶人は大きなため息をついた。
「あ〜あ。なんか別世界の人間って感じ」
それが尊敬でもなく褒め言葉でもないことは明らかだった。人を小馬鹿にしたような傲慢で冷笑的な態度に、秋臣はますます不安をつのらせた。
自分はとんでもないことをしようとしているんじゃないだろうか。 得体の知れない男を家に入れて危険はないだろうか。仕事で家をあけている間、母と二人きりにして大丈夫なのか。もしかしたら「凪叶人(なぎかなと)」という名前だって本名じゃないかもしれない。
彼が所属しているという劇団は、ネットで調べた限りではまだできたばかりで、数回小さな劇場で公演を行っただけだ。経歴もはっきりしない主催者の元に集まった十人ほどの集団だから当然社会的な信用もない。
「あとどのくらいで着く?」
座席を起こしながら訊いた叶人の声はいかにも面倒臭そうだった。秋臣の不安は限界を迎え、心臓がばくばくし始めた。
「十五分くらいかな」
「あんたのこと、なんて呼んだらいいの?」
「え? ああ……お父さんかな」
パパと呼んでいいのは本物の智夏だけだ。だけどもしこの先会うことがあったとしても、彼はパパとは呼んではくれないだろう。それでも「パパ」は永遠に記憶の中に封印されて誰も奪うことはできないのだ。
「呼びにくいなら、父さんでもオヤジでもいいけど」
「大丈夫。しばらく話しかけないでくれる?」
叶人は腕を組んで目をつぶった。その不遜な態度に、秋臣は苛立ちを覚えて車を停車させたくなった。今ならまだ間に合う。ユーターンしてあのアパートに戻るべきなんじゃないだろうか。
右に左にと揺れる心が迷いから抜け出せないまま、とうとう車は実家の前に着いた。秋臣は生きた心地がしなかった。
「着いたよ」
声をかけると、叶人は眠りから覚めたように長い息を吐いた。
「母が嬉し過ぎて眠れないって昨日言っていたよ。本当のおばあちゃんだと思って、優しくしてやってほしい」
何を考えているのか、叶人はうなずくことさえせずにただ黙って前を向いている。
秋臣は車を降りて後部座席の荷物を持ち、震える手でインターホンを押した。外に出た叶人は門扉の奥の家を見たが、無表情で感情が全く読めない。
玄関のドアが勢いよく開いて寿美子が転がるように出てきた。