絶望への告知
母を追い込んでしまった原因の一つではなかろうか?と思ってしまうのが、病院側を責めたいほどの残酷な告知方法だった。
とにかく可愛くて仕方のない孫二人と、仲の良い娘二人との一ヵ月半の東京生活を終え、新たな希望を携えて気仙沼に帰宅した母。
顔色が悪く、少し痩せたようだった父に驚きながらも、そこまでの病気とは疑ってなかっただろう。
「寝てれば治る」という父を説得し、検査入院をした。そして検査結果を父と母二人で医者から聞かされた時、「肝硬変です。治療しましょう」と告げられたそうだ。
命に係わるほどの病気ではなかった!これから食事法や、体操などの民間療法もプラスして、父を元気にしなければ!孫たちもいるんだし!そう母は思ったはずだ。
心配する祖母や、東京にいる私たちに、安心するようすぐに伝えた。
母は前向きだし、何といっても健康に詳しく、食事を大事にする人だ。二十代の頃、合気道の道場に弟子入りし、当時では世間にまだ浸透していない呼吸法の気功術に長けていた。今でいうヨガやピラティスに近いものだと思う。
父は、国家公務員で時間にきっちりしていた。三食決まった時間に取り、決まった時間に寝る。何か行事があろうと、親戚が遊びに来ていようと、それは全くゆるぎなく、夜のお祭りなどには参加していなかったので近所の人に「お父さんどうしたの?」とよく聞かれていた。
六十歳で定年退職し、母の実家である気仙沼市に家を建て、家族みんなで引っ越してきた。
私は中学三年生。妹は小学五年生だった。
定年退職後も、生活は変わらず、決まった時間に三食、決まった時間に睡眠。加わったのは、朝、家じゅうのカーテンを開ける時間と、夕方カーテンを閉める時間。あと昼寝かな。
のどかな田舎で、心地よく暮らしていた。
父も母も病気とは縁がないものと思っていた。
とはいえ検査入院、年齢的にも緊張していたはずだ。検査結果に胸をなでおろし帰宅し、前向きに父をこれまで以上に支えていくと娘たちに話した翌日、父の見舞いに行った母は奈落の底へ突き落されるのだ。
母だけ医者に呼ばれ「ご主人様は手の施しようのない末期の肝臓がんです。生きているのが不思議なくらいです。」と告げられた。
悔しいのはその順番。何故、母を安堵させた次の日に告知した?孫が生まれてウキウキだったなんて医者は知らないだろう。当然だ。だとしても、先に安心させてからのその告知はどうなんだ?
医者がいうには、病院に全くかかっていなかった父と母は、主治医なるものがなく、病院側は、私たち家族の構成も人間性もわからない。どう告知していいのか、本人には伏せたほうがいいのか、わからなかったためだという。
母が出した答えは、父には伏せる。産後間もない母乳育児の私にもギリギリまで伏せる。知っているのは祖母と祖母と一緒に暮らす母の弟(私はおんちゃんと読んでいる)そして妹だった。
母はその日から自力で眠ることができなくなった。
9年経つ今も。