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なぜ「里の縁日」をつくるのか(自分に向けて#07)

かなり単純なことなのかもしれないと最近思う。
複雑に考えようとしているのは、カッコつけたり、表面を取り繕おうとしているからなのかもしれない。

4月に京屋の数人で長野県に行った。
自分たちがこれから進む方向をより色濃くするためのフィールドワーク。それと、素敵な人たちに会うため。

京屋には日本民藝協会の会員がいる。彼女の勧めで松本民芸館に立ち寄った。

松本民芸館は、故丸山太郎氏が「民芸をみるたしかな目」で優れた民芸品を蒐集され、昭和37年(1962)に独力で創館しました。「無名の職人たちの手仕事で日常品」であるものに美をみる民芸の心が、丸山の「美しいものが美しい」という書によく表れています。

松本民芸館HPより

丸山氏の「美しいものが美しい」に心から共感した。

美しいものが美しい
では何が美しいかと申しますと色とか模様とか型とか材料とか色々あります
その説明があってものを見るより 無言で語りかけてくるものの美を感じることの方が大切です
何時何処で何んに使ったかと云うことでなくその物の持つ美を直感で見て下さい
これはほとんど無名の職人達の手仕事で日常品です
美には国境はありません

丸山太郎

では、美しいとはなんだろうか。美とは。

自分が求めているものは、奇をてらう芸術作品、アート作品ではないことだけはわかっている。普段の生活=生きているところからかけ離れた世界に何かを求めるのではなく、綿々と昔から紡がれている"当たり前"に眼差しを傾けたいと思っている。

その当たり前と言われるものこそ実は重要で、それが当たり前にそこにあるから今を便利に生きることができている。

例えば、極端な話、空気や水や風や雨や土は当たり前に存在する。でも当たり前すぎて気に留めることはほとんどない。
日常生活の中で使っている道具たちも同じかもしれない。湯呑み、鍋、箸、布巾、メモ帳、鉛筆。
もちろん、拘っている方はいると思う。
これは自分に問いかけることだが、その拘りの源泉をもっと素直で取り繕わないものにした方が、心が喜ぶのではないか。

高級ブランドのロゴが入っているからとか、みんなが持っているからとか、流行っているからとか、名のある人が作ったからとか。そういうぎこちないものではなく。

純粋に、心地よかったり、落ち着いたり、意義を感じれたり、使いやすかったり、永く使い続けられたり、愛着が湧いたり、手に馴染んだり、誰かを思い出せたり、ただただ心ときめいたり。

美しさの基準は人それぞれ。
考え方の美しさ、容姿の美しさ、成り立ちの美しさ、色々なものがある。
ごちゃごちゃ考えずに、これっていいよな。好きだなって思えるものを手にした時に、その背景にも深みがあり、良い循環が勝手に走り出しているような物を取り揃えたいし、そういう信頼の中で、買い物を楽しんでもらえる場所を作りたい。


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