女性の地位向上のために生涯を尽くした津田梅子ってどんな人物?
みなさんこんばんは、kyoyaです。
新紙幣が2024年7月3日から発行されましたね。
もう実物を手に取られた方もたくさんいるのではないでしょうか?
僕はキャッシュレス派なので未だに実物を見たことがありません。。笑
10000円札は渋沢栄一、5000円札は津田梅子、1000円札は北里柴三郎が
それぞれ選ばれました。
名前をあげた偉人たちがどのようなことを成し遂げたのか知っていますか?
今回はタイトルにもある通り、女性の地位向上に奔走した津田梅子について紹介をしたいと思います。
津田梅子の生い立ち
梅子は1864(元治元)年に、江戸の御徒町で幕臣の「津田仙(つだ せん)」の次女として生まれました。
仙は、英語やオランダ語に通じており、梅子の誕生時は、江戸幕府に通訳として仕えていました。1867(慶応3)年には幕府の遣米使節に加わってアメリカへ渡り、進んだ社会の様子を目の当たりにしています。
そんな梅子の人生は、父の仙によって大きく方向転換します。
なんと6才のときに岩倉使節団の一員として親元を離れ渡米をしました。以後11年間、アメリカの家庭で育ちました。
6才といえば現代なら小学校1年生です。ピカピカのランドセルを背負っている1年生を1人で海外に留学させることはちょっと想像ができないですよね。
梅子がアメリカに渡ったのは1871(明治4)年。
1871年といえば郵便制度が開始された年です。ようやく国内での手紙のやりとりが便利になったという時代に、6歳の子どもが親と別れてアメリカに行く心細さは計り知れませんよね。
梅子を岩倉使節団に入れようと考えたのは、父親の仙でした。仙自身が、1867年に幕府の遣米使節の通訳として渡米し、アメリカの農業や男女平等の様子を目の当たりにしています。
この経験が娘梅子の渡米を後押しすることになったそうです。
岩倉使節団の目的は?
岩倉使節団の目的は、政府首脳による不平等条約の改正交渉、官僚や留学生よる欧米諸国の制度や技術の調査にありました。伊藤博文や木戸孝允、大久保利通といった政府の首脳も同行したようです。
梅子は「開拓使派遣留学生」の一員として10年間ものアメリカ滞在を計画していました。他の男子学生が2年で帰国しているなか、女子学生だけ10年も滞在した背景には、北海道の開拓を行っていた黒田清隆(後の内閣総理大臣)による尽力があったからだと言われています。
黒田も1867年に梅子の父、仙とともに渡米し、アメリカの女性の教育レベルや地位の高さに驚いたそうです。帰国した黒田が女子教育の重要性を政府に説き、女子留学生の派遣が政府によって許可されたというわけです。
アメリカでの暮らし
当時、日本からアメリカに渡る交通手段は船のみでした。梅子は「蒸気船アメリカ号」で約1ヶ月かけてサンフランシスコに到着しました。
それからワシントン近郊、ジョージタウンの「ランマン夫妻」の家で暮らすことになります。
英語を悠長には話せない6歳の梅子はとても心細かったと思います。
ところが留学から2年後の1873年、キリスト教の洗礼を受けたいと夫妻に打ち明けるほど、アメリカの暮らしに馴染んでいました。
梅子は、フィラデルフィア近郊の教会で洗礼を受けたあと、初等教育を終え、8歳からは私立の女学校でフランス語やラテン語を学びます。
アメリカからの帰国と帰国後の苦悩
梅子の留学期間は1881(明治14)年までのはずでしたが、本人の希望で1年間延長されました。そして翌年の7月、17歳になったタイミングで梅子がアメリカから帰国しました。
明治15年の日本といえば、ようやく日本銀行券が発行されたころです。女性の社会進出どころか、内閣制度がスタートするなど、近代国家としての基盤作りの段階にありました。
11年間もアメリカで暮らし、英語が堪能でも日本語が不自由な梅子に居場所はありませんでした。男子留学生に職は与えられても、梅子には政府や開拓使から仕事が与えられることはなかったそうです。
また梅子は、アメリカの女性と日本の女性の地位の差にも驚きました。当時の日本人女性は、高等教育を受けることはできないのです。
華族女学校での教鞭と再留学
梅子は伊藤博文の家の家庭教師を経て、1885(明治18)年に「華族女学校」の英語教師に就任します。
華族女学校(のちの学習院女子大学)は華族の女子に本格的な学びを提供する場所です。梅子は華族女学院で女子学生に英語を教えながらも、ふたたびアメリカへ留学することを夢見ます。
女性の梅子が留学することは非常に困難でしたが、留学時代のアメリカの友人の助力により、授業料の免除等を勝ち取って、華族女学校に在籍したまま渡米することが認められます。
期限は2年間で梅子が再度アメリカに渡るのは1889(明治22)年、24歳の時でした。
アメリカに渡った梅子はブリンマー大学に入学します。大学で質が高い教育を受けて、女性にとっての教育の重要性を再認識しました。
当時の梅子が学んでいたのは生物学です。1894年には梅子が執筆した「蛙の卵の発生について」の論文が学術雑誌に掲載されています。
また、人に物事を教える「教授法」についてはオゴウィゴー師範学校で学びました。
女性教育への想いと女子英学塾の創設
ブリンマー大学在学中、梅子は自分のように学びたい女性の助けになればと考え「日本婦人米国奨学金制度」を設立しました。
資金集めのための公演や募金活動を行い、2度目の留学から帰国したのは1892(明治25)年のことでした。ふたたび華族女学校に勤め、明治女学院でも教壇に立ちました。
その後も2回、アメリカやイギリスに留学して、「女性の地位向上のためには専門的な知識、学問が必要不可欠だ」との思いを強くします。
そして1900(明治33)年、「女子英学塾」を創設。これまでのお行儀作法の延長のような学校ではなく、少人数方式のレベルが高い教育を目指した学校です。
初年度の入学者は日本全国から集まった10名の女性でした。入学者たちは英語を学び、英語教師を目指しました。
ここから日本人女性活躍の第一歩が踏み出されました。
津田梅子の残した言葉
梅子は、女子英学塾の開校式で
教育には物理的な環境以上に、教師の熱意と学生の意欲が重要
人にはそれぞれ個性があるため、教育も個性に合わせて行うべきである
学生は広い視野を持つ女性「all round women」を目指して欲しい
という言葉を残しています。
女子英学塾は、英語教師を目指すための学校ですが、真の目的は英語を通して視野を広げ、国際的教養を身に付けた女性を育成することにありました。そのため、単に設備を整えただけではなく、教師の資質や学生の個性を重視した、独自の学校経営を目指したのです。
また、梅子は学生に向けて、
「英語の先生になってもならなくても、常に高尚な生活を心がけるように」とも伝えています。
「何のために学ぶのか」を考えるとき、梅子が残したこれらの言葉は、現代を生きる私たちの心にもしっかりと響くでしょう。
まとめ
津田梅子は日本における女性の地位向上、女性教育の基礎を築き上げその生涯を終えました。
SDGsのジェンダー平等に関して日本はまだこれからというところですが、
津田梅子の志と行動がなければ今の日本の女性はここまで活躍できる場がなかったかもしれません。
自立した女性が社会で活躍することが今の日本をもっと明るく発展すると思っています。
この記事を読んで「女性としてキャリアアップするぞ」と思ってもらえたらとても嬉しいです。
それでは、また。