言語化する喜び
人は言語化する喜びを持っている。
何を?
自らの思考である。
人は絶えず物事を考える生き物である。それは望むと、望まざるとにかかわらず、人間の生理現象のように発生する。
人は考えずには生きられない。
物事をほとんど考えていないように見られる人もいる。しかし、そんな人物であっても「お腹空いたなぁ」とか「夕食はパスタがいいな」ぐらいは考えるだろう。それを思索と呼ぶかどうかは話は別だ。が、ともあれ人の頭の中には無数の考えがあって、時に自分がいま何を思考しているのか、何を重要と思っているのか、はなはだ判然としないときがある。
そうしたとき、私は言語化することをおすすめする。
言語化はすばらしい道具であるとともに、私たちに喜びをも与えてくれる娯楽である。
誰でも、よく分からなかったことが分かったときの喜び、あの「エウレーカ!」と叫びたくなるような感覚は、一度ぐらいは覚えがあるものではないだろうか。
いや、覚えていなくとも、それは忘却の彼方に置いてきてしまっただけだ。誰でも自らの思考を言語にしたときの喜びはあったはずだ。そう、初めて両親を「パパ」と「ママ」と呼んだときのように。初めて「やった!」と喜んだときのように。初めて「ムカつく」と苛ついたときのように……。
人の感情も、思考も、全ては言語があって成り立つ。
私たちは言葉で物を考える。
とすれば、言葉に鈍感であるのはいささか不便だ。例えば自分の思考をどう言葉にしていいか分からないとき、人は困ってしまうのではないだろうか。正しさは問題ではない。世の中に絶対的な正しさがないように、言葉にも絶対的な正しさはないのである。
しかし、方向づけることはできる。
少なくともいま、自分の気持ちを、考えを、相手に伝えようと努力したり、自分の中だけでもはっきりさせることはできる。
正しさはない、とは、言語化は絶えず進化していくものだからだ。
あの時こういう言葉を使っていた思考が、もしかしたら一年後、辞書で新しい言葉を見つけて、そっちのほうがぴったりだった、ということもあり得る。
だが、勘違いしないで欲しいのは、その時、その言葉を使って自分の思考を言語化したのは、決して無駄ではないということだ。
それはあなたの財産になっている。
あなたの血肉となり、あなたの思索を作り上げていく。
それこそが私の考える、言語化にしかない特別な「喜び」だ。
私は誰でもこの「喜び」は体験できるものだと思っている。
人が、自らの言葉で物を考え続ける限り……。
だから、私も言語化しよう。
この「喜び」こそ、何物にも代えがたいものだから。