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こだわりがんこ社長の昔話~たけのこ工場篇~

今回は、こだわりがんこ社長に会社の歴史を語ってもらうシリーズ第2弾です。
子どもの頃から「たけのこ」や工場・会社と密に関わってきた社長だからこそ語れる今なら信じられないお話の連続です。
トップの画像は昭和45年の工場付近の写真です。


お母さんのお手伝いから始まりました!

私は物心がついた頃、保育園に通っていた当時、筍が始まったら保育園の
帰りに筍工場に行って手伝いをしていました。
主な仕事は母親が筍の選別をしていて、グレードを分けた(AとかBとかCとかの選別のこと、その頃は一級、二級、三級と言いました)たけのこを 18ℓ缶(一斗缶)に11kgずつに分けて詰めることでした。数を数えながら詰めていって、例えば二級で56本なら 『56二』と書いて水を入れて積んでいく缶詰め作業です。
昨日に入荷し、先を切って湯がいた筍を、手で剥いてきれいに整形したものを選別し、缶に詰めて、蒸気炊きをした後、ハンダでふたをしていましたが、その缶に詰める作業でした。

お手伝いからたくさんの学びがありました

母親は一日分の筍の選別を一手に引き受けていて、すばやく選別していました。
二個の筍を手に取るやいなや、すぐにグレードサイズで分けられたカゴに投入していきます。
そのカゴが11kgになると計量して、私が缶に詰めるところに持ってきます。私はもくもくと数をかぞえながら缶に詰めていきます。
腰が痛くても眠たくなってもずっとやりつづけます。
毎日毎日その作業をしていると、一級はこんな筍が入っている、二級は一級とここが違うのか、この頃は三級が増えてきたな 、四級と三級の間に『三イ』というグレードがあるのはなぜなんだろうとか分かったようなことを思っていました。
事実、この筍は一級、この筍は二級 とほぼ母親の選別は覚えていて、
子供でも届く選別台があれば選別ができるようになっていました。

晩ご飯も工場でみんなと食べました

缶に詰める作業をしていたら「晩ごはんにしよか~」と呼ばれ
工場で仕事をしてくれているみんなと一緒にごはんを食べました。食べ終わったらすぐに缶に詰める作業にもどります。
たくさんの方がそれぞれ一生懸命仕事をして今日の作業を終らせようと頑張っておられました。

小さいながら私もその一員として頑張ろうと思っていました。
 夜も遅くなり私はいつのまにか寝てしまい、 朝起きたらいつもの家の部屋ってこともありました。
寝てしまった私を仕事が終わった母親がおんぶして家に連れて帰ってくれたのでしょう。
その日も次の日も同じことが繰り返されていました。

作業はすべて手作業で…

その頃は現在の食品工場と同じ場所にありましたが、すべて手作業でした。
原料の筍は工場に入るとまず、筍の先を押切りで一本一本切り落としていきます。それは湯がいた後、手で皮を剥く時に先が落としてあるとそこに手を入れ、力を入れれば、がばっと剥けるので手むきの為に必要な作業でした。
それを釜に入れて、ブランチング(湯炊き)するのですが、子供の頃にホイストクレーンが工場に導入される前はブランチングの終わった熱い筍をアミですくって一輪車に乗せ、冷却用水漕まで走っていました。
水槽に早く入れて釜を空にしないと次の筍が炊けないので熱い筍を掬い出す、大汗をかきながらの作業でした。 
水槽も当時は伏見の酒蔵から酒のしこみ用の大きな樽をいただいてきたものだったので、投入するには高いところに持ち上げて入れないとですし、樽から出すには長くて重い大きな杵子で樽の上から掬い出していかないと でしたので大変な重労働でした。

近所のこどもたちのアルバイト先に…

皮を剥く作業も当然手作業でした。
一本一本の皮むきで親指が痛くなり、しゃがんでの作業は腰も痛くなり、忍耐という言葉がぴったりの作業でした。
休日になると近所の小学生が皮むきのアルバイトに来ていました。
皮をむいた筍を丸いザルにいっぱいにしたら50円とか100円だったと思いますが、5千円以上稼ぐ子供もいました。
ホイストが無いリフトも無い、コンベアも無い…物の移動は全て人力でした。
当時は掘る人の苦労は当然ですが、缶詰屋も本当にしんどい肉体労働のかたまりの様な状態でした。今なら誰もしない辛い作業でした。

みんなの頑張りに支えられて…

日本が高度成長期の波にのって発展する前は何から何まで手作業でそれが当り前でした。
私の父は「人の3倍仕事したらごはんは食べさしてもらえる」とよく言っていましたが、その時の工場で働いていた人は全員が人の3倍以上働いていたように思います。
みんなの頑張りで、小川食品の礎を築いていただいたことに心から御礼を申し上げたいと思います。

入社する頃は…

私が社員として工場で働くようになった昭和50年代は機械化も進み、以前と比べたらずいぶんと楽になってまいりました。皮むき機の開発をメーカーとともに進め、1号機が導入された時、缶詰屋の仕事が半分になったような気がしました。
皮むき機の導入は手で皮を剥くという仕事が機械化され、簡略されただけでなく、入荷時に一本づつ押切りで筍の先を切り落とす作業も不用になったからでした。

機械の導入により…

クレーンホイストの導入は、物の流れが人ではなく機械がしてくれますので大きな変革を進めました。入荷した筍は350kg位入る網カゴに入れてクレーンでブランチング釜に入れ、終わればそのままクレーンで冷却水槽に。冷えればそのまま網ごと皮むき工程にクレーンで運びます。
全て手作業で大きなすくいで熱い作業だったのが、ボタン一つで移動させることができ、手間は本当に少なくなりました。

たけのこ掘りは家族の仕事でした

昭和50年代はこの京都西山丘陵のたけのこ畑から出荷される「京たけのこ」の量が最大となった時期でした。
たけのこ畑が倍に増えたのではなく、筍の掘り手が多かったからと考えています。団塊の世代のたくさんの方が筍掘りをしてくれたおかげです。
お父さんと家を継ぐ長男さんだけでなく、サラリーマンをしている次男さん三男さんも朝早くから畑にはいって筍掘りをしてから会社へ出勤。
休みの日には朝から手伝うのがあたりまえ、村全体がそんな雰囲気でしたのでみんな筍掘りをしていただきました。

機械の導入と同時に入荷量も上がり…

そうすると缶詰会社にも多くの原料筍が入荷してきます。
手作業だけの時は一日に10トン入荷すると、がんばらんと!となりましたが、50年代は1日25トン以上入荷する日がかなりあり、少し機械化できたとはいえ、狭い工場にそれだけの量が入荷するとやっぱり戦争の様な忙しさでした(実際戦争は経験していませんが…)

その量が1週間から10日続くと夜はほとんど寝ずの仕事になりますので、立ったままごはんを食べている時に知らずに寝てしまうこともありました。 今からあの時の様な仕事をしろと言われてもできませんが、あたりまえと思って頑張っていました。
休みは全くなく、筍の収獲が終るまで一気に走り抜けていました。
終わった時の達成感はそうとうのもので、みんな一緒にバンザイをしていました。

掘り手が減り…

現在は掘っていただける農家さんの年齢も上がり、息子さんも手伝わないこともあり、一日に掘り上げる収獲量は確実に減ってしまいました。
入荷する原料もそんなに多くなく、交替で休日を取ることも可能になりました。
製造できる缶詰の量も少なくて、お待ち下さっているお得意様の要望に応えることができなくなってきています。
少し淋しさを覚えるたけのこ製造期ですが、たけのこ屋のオヤジとしてはやっぱり気合いがはいります!!
何年も先までずーっとこの仕事を続けていきたいです!


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