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気候変動と照葉樹林から観た大森・池上の地球史 失われた大陸と日本建国の物語
今回の池上祭で掲示・配布した展示解説資料「地球史から観た大森・池上の誕生」の内容を、こちらにも掲載します!
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私達の郷土である大森・池上(東京 大田区)の成り立ちを、氷河時代の自然環境などから考えます。私達に近い人類が誕生してから、約1万年前までの地球は大氷河時代と呼ばれ、気候変動(寒冷化・温暖化)や火山噴火が頻発する、自然環境の激動時代でした。「富士山や箱根から飛来した火山灰が積もる」「多摩川などの河川から海(古東京湾)に流された土砂が積もる堆積作用や、川が谷を深く削る下刻浸蝕作用」「プレートの衝突による造山運動」などの様々な成因により、私達が暮らす関東平野、そして大森・池上の地形が創られました。
最終間氷期
大森と田園調布の起原
約12万年前の最終間氷期(下末吉期)は、関東平野の大半が海没するほど暑い時代でした。温暖化の結果、水の循環が活発になり、川から海へと運ばれる土砂(扇状地)の量が増え、その堆積作用などによって、荏原台地(大森・池上)や田園調布の台地が創られ始めました。
ウルム最終氷期
久ヶ原と呑川の誕生
約6万年前のウルム最終氷期(武蔵野期)になると、地球は再び寒くなってしまいますが、多摩川は凍らずに流れており、大森・蒲田の平原を削り続けていました。その結果、土地の高低差が大きくなり、その高いほうが久ヶ原(久が原)台地になりました。約2万5000年前、大田区内に人類が住み始め、この久ヶ原などで暮らしていました。約2万年前(立川期)には、北の「荏原台地」と南の「田園調布・久ヶ原」を分ける谷に多摩川の分流が流れ込み、これが呑川になったと考えられています。
縄文海進
スンダランドと日本人の祖先
氷河時代の東南アジアには、スンダランド(いわゆるムー大陸)という陸地があり、人類が暮らしていました。しかし、約1万年前に氷河時代が終わって縄文時代に入ると、急激な地球温暖化と、それによる海水面上昇(縄文海進)が始まり、スンダランド大陸も海没してしまいます。スンダランドから脱出した人々は、縄文時代の日本列島に移住し、私達の祖先(原日本人)になったとも言われます。彼らは、蒸し暑い気候の中で食糧を保存・調理するため、世界最古級の土器(縄文土器)を発明しました。
稲作の始まり
洞庭湖と長江文明
同じ頃、日本列島と中華大陸の間に広がる華東海(東チャイナ海)でも、大陸棚の平原が海没し、そこに住んでいた人々(江南民族)は、中華大陸の長江下流域(華東地方)に脱出しました。原日本人(縄文人)同様、彼らも食糧を安定的に確保する方法を試行錯誤しました。その結果、洞庭湖(湖南省)の周辺に暮らしていた江南民族らによって水田稲作農耕(お米作り)の技術が発明され、長江文明が築かれました。
照葉樹林文化の形成
温暖化の結果、アジア南東部(南アジア・東南アジア・東アジア)の暖温帯には、暖かい気候に適応した照葉樹林(常緑広葉樹)が生い茂りました。そして、その森の中で暮らす人々によって照葉樹林文化という共通の文化が育まれました。照葉樹林文化とは、具体的には「栽培・焼畑農耕」「漆器・竹容器・養蚕絹糸を生産する」「お茶を飲む、お餅を食べる、麹菌で酒などの発酵食品を造る」「山に神・死霊がおられると感じる山岳信仰や、そこで異性との歌舞・飲食などを楽しむ歌垣の風習」などが挙げられます。また、先程の洪水神話などの昔話も、照葉樹林文化の共通要素と考えられます。そして水田稲作の開始により、照葉樹林文化は一つの完成を迎えます。
照葉樹林文化の日本列島への伝来
照葉樹林文化は、ヒマラヤ山脈のブータン地方や、中華江南地方の雲南省・湖南省などを中心に発展しました。それが東西に広まり、西はネパールに、そして東は台湾・韓国・西日本などに照葉樹林文化が拡大しました。また、アジア南部の言語(南部アジア語族)も日本列島に伝わり、それが日本語の形成に影響を与えたようです。
照葉樹林と大森貝塚
そして、縄文海進と照葉樹林は、ここ大田区にも影響を与えました。呑川が増水して海(奥東京湾)になり、蒲田などの下町低地は水没してしまいました。他方、大森区域の荏原台地は、海没せず照葉樹林に覆われて大森貝塚や長栄山(池上本門寺)になりました。これこそが「大森」という地名の由来であり、現在も大森貝塚や本門寺周辺では、照葉樹林の「大きな森」を見る事ができます。大森貝塚(約3000年前)の人々は、食糧となった生命に感謝の祈りを捧げ、亡くなった仲間(人間と犬)を大切に埋葬する、豊かな精神文化を持っていました。
日本列島における水田稲作と照葉樹林文化の完成
縄文海進が終わった後、約4200年前から再び地球規模の気候変動が起こりますが、今までとは逆に寒冷化・乾燥化が進み、エジプト(古王国時代)やアッカド王国(イラク)が崩壊し、長江文明も急速に衰退します。そして、長江文明から脱出した人々などが九州に移住し、日本列島に水田稲作を伝え、照葉樹林文化の完成と共に、縄文時代は終わりを迎えるのです。
日本建国と池上の始まり
弥生時代から大和古墳時代を経て、豪族や王家が社会のリーダーになり、私達の国「日本」が建国されます。荏原台地の南端部にある長栄山には堤方権現台古墳が築かれ、弥生時代の集落(約2000年前)が営まれたり、古墳時代の豪族(約1500年前)が埋葬されたりしました。その後、呑川に流れ込む湧水が集まる洗足池に因んで、長栄山の周辺は「池上村」と呼ばれるようになりました。この長栄山という台地こそが、後の本門寺です。
それから更に時が過ぎ、長栄山には池上本門寺(釈尊仏陀・日蓮)と堤方神社(天照大御神・仁徳大王)、そして大森めぐみ教会(キリスト)が建てられ、池上は神々と人々が触れ合う霊地の町となり、今に繋がっているのです。私達「大森清陵会」は、そんな大森・池上の歴史地理を学び、その魅力を未来に伝え続けたいと思います。
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大森清陵会(大森第四中学校同窓会)
【第19回池上まつり】池上の地域力の結集‼︎
— もり愛 あなたの声で都政改革!命と暮らしに寄り添う都政へ (@ai_ota) August 25, 2024
開催おめでとうございます❗️… pic.twitter.com/5dG21vuzVO
池上まつりの吹奏楽団
— ⚓神崎凛🍫うみっふぃー ✨ 8月出雲☕ (@Rin_683_kanzaki) August 25, 2024
凄く良かったです🦫✨ pic.twitter.com/VmhPZ9g1j6
池上まつり 楽しかったです🦫✨
— ⚓神崎凛🍫うみっふぃー ✨ 8月出雲☕ (@Rin_683_kanzaki) August 25, 2024
お疲れ様でした!!😆 pic.twitter.com/agzlD0K2mA
池上まつり 東急電鉄ブース🦫
— ⚓神崎凛🍫うみっふぃー ✨ 8月出雲☕ (@Rin_683_kanzaki) August 25, 2024
模型やら車掌機材運転台やらの
豪華3本立てで凄かったです😲✨✨ pic.twitter.com/x8PixlZUBr