聞信義相

FBで書き連ねていたものを、備忘のためにまとめておきます。
まとめて欲しいと言ってくれた人がいましたので、ご要望にお応えする形で掲載します。
いつも拙稿をよんでくださり、ありがとうございます。

では。

1

『仏説無量寿経』の下巻始めに本願成就文と言われる御文があります。

阿弥陀さまの願いとして、48の願いがあり、そのなかで私を救うと誓ってくださった願いは、18番目の願いです。

その願いのことを親鸞聖人は本願と言い表されました。

設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法

私が修行を完成して仏となったときに、生きとし生けるすべてのいのちにたいして、「ほんとうに、うたがいなく、わたしの国にうまれると思うて、たった十回でもお念仏して参らせていただきます」と言う者が、もし私の国にうまれることがなかったならば、わたしは決して悟りを開くことはない。

ただ、五逆罪という取り返しのつかない罪おかすもの、仏が語ることばをそしる者はのぞく。

という願いです。

この願いが成就(完成)し、わたしに届く力となったことを、本願力(願いがはたらきになった)というのです。

お釈迦さまが阿弥陀さまの本当のすがたをご説明になっている箇所がこの御文です。

それがお経には成就文として出ています。

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国

卽得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法

すべてのいのちは、阿弥陀仏の名のおいわれを聞いて、阿弥陀さまのお浄土から、深遠なるおみのりが届いたときに、満足をえて、けっしてひるんだり、絶望することなく、その生涯にわたって阿弥陀さまの御慈悲の心が届き続け、阿弥陀仏のお浄土に生まれることを尊く思い、生きていく人生をいただくのです。

ただ、五逆罪という取り返しのつかない罪をおかしたものと、仏の説く教えをそしるものはのぞかれる。

ここに説かれる、聞という文字について、考察を試みるのが、聞信義相という論題ですが、次回はこの内容を親鸞聖人がどのように見ていかれたかを、おうかがいしていきたいと思います。

なまんだぶ

2

聞信義相に入る前に、親鸞聖人が信心についてどのようなことを仰っているのかを、正確に見ていきたいと思います。

『顕浄土真実教行証文類』(現代語訳附)を依用させていただきます。

親鸞聖人は信心のことを信楽(しんぎょう)と仰っています。

「信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし」

現代語訳

信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに溶け合っている信心である。

このようなわけであるから疑いは少しもまじることがない。

それで、これを信楽というのである。

すなはち他力回向の至心を信楽の体とするのである。

ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。

『現代語訳版352〜353、註釈版235』「本願寺出版社発行」

と仰っています。

親鸞聖人がおっしゃった信心というのは、私には本来そなわっていないものです。と言われています。

また、今までも用意できなかったし、これからも用意できません。

一般的な仏教で言われる信心とは菩提心と言われます。

仏道を志して生きていくことです。この信心を仏さまや、菩薩さま方は守護し、はぐくんでくれます。

しかし親鸞聖人は法然聖人の教えによって、それが全く完成できない人の道があるとお示しになるのです。

それが浄土真宗の信心のすがたです。

この言葉の中に、「利他回向の至心」という言葉があります。

利とはおすくい、他とは救われる私の事です。

回向とはさしむける、仏さまから届けてくださる。

至心とは、真心、如来さまの純粋意思です。

こちらは何も用意できないので、阿弥陀さまから届けてくださるのですよ。

と親鸞聖人は仰っているのです。

3

では聞ということを親鸞聖人はどのように仰るのか、おうかがいをしていきます。

『顕浄土真実教行証文類』(現代語訳附)より

しかるに『経』(大経・下)に

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。

「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。

「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。

これを一心といふ。

現代語訳

ところで『無量寿経』に

「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。

「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。

「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。

「乃至」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。

「一念」というのは、信心は二心がないから一念という。

これを一心というのである。

『現代語訳407、註釈版251』

と仰せになっています。

ここに「聞」という言葉があります。

聞というのは、仏願(阿弥陀さまの願い)の生起(起こった理由)本末(それがどのように完成し、はたらいているか)を聞いて、疑心あることなし(疑いが晴れた)ことをいう。

と仰っています。

この生起というのは、苦しみの中にいるあなたがいたからだ。という仏様の声なのです。本末とは本は(第18願)末は(本願成就文)。

あなたがいたから私は願いを起こしたのだよ。ほかでもない何も信心らしいものを用意できないあなたがいたから(生起)、私は南無阿弥陀仏を完成したのだよ(本末)。

これを聞というのだよ。

こう親鸞聖人は仰っているのです。

4

さて、親鸞聖人が自分の中に、真実の信心が見当たらないとおっしゃったのは、どういうわけがあるのか、少し深掘りをしていきたいと思います。
もとは、これは法然聖人からの伝承です。
法然聖人のこころのありようを述べられた書物が残っています。『和語燈録巻五、二四諸人伝説の詞』
『浄土真宗聖典全書巻6、補遺篇 608頁から609頁』に
また凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとふるに、さるのごとし。ま事に散乱してうごきやすく、一心しずまりがたし。
无漏の正智、なにによりてかおこらんや。
もし无漏の智剣なくは、いかでか悪業煩悩のきづなをたたむや。
悪業煩悩のきづなをたたずは、なんぞ生死繋縛の身を解脱する事をえんや。
いかがせん、いかがせん。
ここにわがごときは、すでに戒定慧の三学のうつわ物にあらず。
この三学のほかに、わが心に相応する法門ありや、わが身にたへたる修行やあるやと、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらふしに、おしふる人もなく、しめすともがらもなし。
しかるあひだ、なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひて、てづからみずからひらきて見しに、善導和尚の『観経の疏』にいはく、「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近念念不捨者、是名正定業、順彼仏願故」といふ文を見えてのち、われらごとくの无智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなふべし。
ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり。
「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にとどめたる也。
現代語訳(東訳)
私のような、取り立て能力のないものの心は、おりにふれてうつろいやすい。
たとえていえば、猿のようだ。
ほんとうに、散乱して動きやすく、一つの心に集中することもできない。
ほとけさまのように煩悩にけがされない正しい智慧が、なにによっておこるというのか。
もし仏さまのように煩悩によってけがされない、智慧の剣がなかったならば、どうやって、怒りや、欲や、愚痴のそくばくを切って捨てることができようか。
悪いことをすれば悪い結果をそのまま引きうけていかねばならない、恐ろしい地獄の種をもつきずなを絶たなかったならば、どうして生まれかわり死にかわりして、かんじがらめに罪業のくさりにしばられていることから離れることができようか。
どうしよう。どうしよう。
ここにいたって、私はすでに戒律をまもること、こころを集中すること、自分の智慧をみがきだすという三つの学びを修行することができる人間ではない。
この三つの学びのほかに、私のようなものに間に合う仏さまのみ教えはないものか、私のようなものにたえることのできる修行はないものかと、あらゆる仏道をおさめた先輩をさがし、たくさん学問をおさめた学者をたずねてみたが、教えてくれる人もいない、しめしてくれる人もいない。
そのようなことであるから、なげいてなげいて、独りお釈迦さまの説いてくださった教えが納められている書庫にはいって、かなしみかなしみ仏さまの聖なる教えをひもといて、自分の手でたぐりよせるように開いて見ていたところ、善導和尚の『観経の疏』におっしゃってあるのは
「一心専念弥陀名号、行住座臥不問時節久近念念不捨、是名正定業、順彼仏願故」
《ただひとすじに阿弥陀さまの御名をとなえるのである。いつでも、どこでも、歩いていても、座っていても、寝ていてもよい。
たくさん称えてもよい、短くてもよい、如来様が私を浄土に招くという如来さまのことばである他力の念仏を行じるのを正定業という。なぜなら、阿弥陀さまの本願にかなっているからです》
ということばを発見して、わたしのような智慧のない身は、ひとへにこのことばを仰いで、ただ一筋にこの本願他力の法則におまかせして、いつでもどこでも、本願にかなって念仏するものを捨てないという御念仏を称えて、間違いなくお浄土に参らせていただくという阿弥陀さまのおはたらきに身をゆだねるのである。
ただ、善導さまがのこしてくれた教えにしたがうということではありません。
阿弥陀さまの御慈悲の願いにしたがうのです。
「順彼仏願故」《阿弥陀さまの本願にかなっているのだ》ということばは、ふかくたましいに染み込んで、心にのこりつづけている。
このように、法然聖人は自身の信仰告白をされています。
ここであることにお気づきになるでしょう。
『顕浄土真実教行証文類』「信巻」の
仏願の生起本末が書かれています文章の前に
光明寺の和尚(善導)は、「一心専念」といひ、また「専心専念」といへり。以上
『註釈版251』
とお示しになっています。
法然聖人さま、これからあなたのお示しになった念仏の信心をここに明らかにします。と親鸞聖人のお気持ちがあふれでているように、私には見えてくるのです。

5

さて、法然聖人のお示しになった信心は、「順彼仏願故」という文字におさまります。

この信心の内実を、親鸞聖人は、『仏説無量寿経』において、聞の一字からお開きになって、法然聖人の個人的信心の話しではなく、お浄土から届く、阿弥陀様の力(本願他力)によって起こっていることを『顕浄土真実教行証文類』において、明らかにしていかれます。

法然聖人の信心も、親鸞聖人の信心も、阿弥陀さまから賜った信心であることを明らかにしようということです。

『顕浄土真実教行証文類』「行巻」に行一念義を明かされていますが、そこにも「聞」の字が示されています。『現代語訳上193〜195、註釈版187〜188』

およほそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり、行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。

ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、〈それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。以上

光明寺の和尚(善導)は「下至一念」といへり。また「一声一念」といへり。また「専心専念」といへり。以上

智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく、「深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく」

現代語訳

総じて、往相回向の行信について、行に一念があり、また信に一念がある。

行の一念というのは、最初の一声というもっとも少ない称名の数を示すことにより、如来の選び取られた本願念仏という易行の窮極の意義をあらすのである。

だから『無量寿経』に説かれている。

「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

〈もし、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、わずか一声念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなはちこの上ない功徳を身にそなえるのである〉」

善導大師は『観経疏』に「下至一念」といい、また『往生礼讃』に「一声一念」といい、また、『観経疏』に「専心専念」といわれている。

智昇師の『集諸経礼懺儀』におさめられている善導大師の『往生礼讃』にいわれている。

「深心とは、すなはち真実の信心である。わたしはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、善根は少なく、迷いの世界に生まれ変わり死に変わりしてそこから出ることが出来ないと信知し、いま阿弥陀仏の本願は、名号を称えることわずか十声などのものや

ただ名号を聞いて信じるものに至るまで、必ず往生させてくださると信知して、少しも疑いの心がない、だから深心というのである」

ここにも、仏願の生起本末の文章に説かれている、聞、信心、歓喜、乃至、一念の文字があります。

聞というのは「順彼仏願故」の中味です。

それを開くことによって、「信心、歓喜、乃至、一念」が利益としてあらわれてくるのですよ。

と聞の姿から、利他力(私をすくうちから)の中味をお示しになるのです。

6

「聞者、衆生聞仏願生起本末無有疑心、是曰聞也」

「順彼仏願故」

聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞といふなり。

かの仏願に順ずるがゆゑに。

二つ並べてみると、これが同じ意味だということがよくわかります。

さて、仏願に順ずるということを親鸞聖人は『尊号真像銘文』という、南無阿弥陀仏のお名号にどのようなおいわれがあるかを示された御聖教に、善導大師の六字釈をお引きになって、ご説明になっています。『註釈版655』

善導和尚云

「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故 必得往生」文(玄義分・325)

「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すことばなり。

帰命は、すなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり。

このゆゑに「即是帰命」とのたまはへり。

「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて、安楽浄土に生まれんとねがふこころなりとのたまへるなり。

「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり。

即是其行は、これすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり。安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。

「以斯義故」といふは、正定の因なるこの義をもつてのゆゑにといへる御こころなり。

「必」は必ずといふ。

「得」はえしむといふ。

「往生」といふは、浄土に生まるといふなり。

かならずといふは、自然に往生をえしむとなり。

自然といふは、はじめてはからはざるこころなり。

と仰せになっています。

この御文の中に、「勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり」とありますが、これが聞の意味と同じになります。

昔、三業惑乱という騒動がありましたが、これは願生帰命といって、お浄土にうまれさせてください。と願いを起こさなければ、救われないという義を建てたことによります。

これを邪義とした理由は、願いの主客が逆さまであったからです。

仏さまが、生まれて来ておくれよ。と願ってくださっているのに、私が願わないと救われないとしたら、それは阿弥陀さまの御慈悲にかなったことにならないからです。

勅命のほかに御領解なし。と昔からいうのです。

御念仏するのも、私が御念仏して助けてください。とかかると、逆さまになる。阿弥陀さまが、あなたの生涯で、たった十回でもいいから御念仏しておくれよ。と願ってくださっている。

その仰せにしたがって、ああ阿弥陀さまは私に御念仏しておくれよと願ってくださっているのだな。と聞かせてもらいます。

何故御念仏することを願ってくださるのか。

それは南無阿弥陀仏という言葉が、私をお浄土に招く招待状だからです。

主客を明確にすることで、信心の内実というものがはっきりして参ります。

お浄土にうまれるということもそうです。

私がお浄土に生まれると願わないと助からないのではありません。阿弥陀さまが、どうぞ生まれてきておくれよ。と願ってくださるから、生まれることが定まるのです。

阿弥陀様は「まかせよすくう」と願ってくださるから、仰せの通りに「まかせよすくう」を聞かせてもらうのです。

ここで真宗では二種深信ということを言います。

仏願の生起は機実といわれます。本末は法実といわれます。

機実は、始まりのわからない昔から、真実の信心といえるものを用意できない私がいたこと。

悪いことしかできない私がいたから、悪い結果を招くことしかない、この苦しみの娑婆世界に縛られていること。

法実は、そのもののために、一瞬一刹那も真実ならざることなく、法蔵菩薩様が私のために御修行なされて、今、まかせようすくうと南無阿弥陀仏になってお出ましになっていること。

ここで注意しないといけないのは、仏願の生起です。私が願うのではないんです。くどいですが大事なことなので書きます。

蓮如上人は『御文さま』の第三帖五通で「かかるあさましき機(機実)を本とすくひまします不思議の願力ぞ(法実)」とお示しになっています。

この表現は昔から「説筆次第」といわれます。水は冷たいと言うときに、冷たい水と、水が二つあるわけではありませんが、文字にするときにはどうしても二つ書かないと成り立たないことです。

むかしからこのことを「おつるものをこそたすけたもう」と、私は聞かせてもらいました。

「おつる」と思い込まなければ助からないのではありません。

「おつるものをたすけるぞ」という仰せを「さようでございますか」とお聞かせいただくのです。

追記

『浄土から届く真実の教え-『教行証文類』のこころ』梯實圓和上著より一部66から67頁引用します。

以下引用開始

『大無量寿経』の教えをとおして私に届けられた真実のみ教え、その内容を開けばお念仏となるのです。

「南無阿弥陀仏」の一つにつづまると言われたのです。

そのお念仏が私のところに届いて信心となるのです。

お念仏が信心となるのだと言われました。

それでお念仏とはいったいどういうものなのか。

これはこれからお話ししますが、お念仏とは阿弥陀様の言葉、阿弥陀様の本願のお言葉なのです。

これがお念仏なのです。

その仏様の本願のお言葉、一口に言えば

「私にまかせなさい、必ず助ける。安心して私にまかせなさい」というのが「南無阿弥陀仏」という言葉なのです。

「南無阿弥陀仏」というのは仏様の名前ですが、その名前にはちゃんと意味があるのです。

ただの名前ではありません。

ご自身の親ごころを伝えるための名前なのです。

ですから親鸞聖人は、「摂取してすてざれば阿弥陀と名づけたてまつる」と言われているのです。

阿弥陀という名告りは何かというと「摂取して捨てない」ということです。

あなたを抱き取って必ずお浄土へ連れていく、だから安心してまかせなさいよということです。

このように阿弥陀様は、あなたの救い主ですよと名告り出てくださっているのです。

私はあなたを責任持ってお浄土へ連れていくものであると、阿弥陀様は名告り出てくださっています

その仏様の名告り、それがお念仏なのです。

そのお念仏を聞いたら、私を助けてくださる親様がいてくださるのだいうことに気づきます。

その気づいたこころを信心というのです。

気づいたこころですがこれは気づかされたこころなのです。

その気づかされたこころが私の信心となり、信心を与えお念仏となって、私の上に響きわたっているのです。

私たちはこの行と信に導かれてお浄土に連れて行っていただくのです。

阿弥陀様と一緒に浄土への旅を続けていくのです。

以上引用終わり

7

よく浄土真宗でお聴聞ということをいいますが、親鸞聖人は、『平等覚経』から『顕浄土真実教行証文類』で大行釈のご引文『現代語訳上37、註釈版145』、化身土巻の真門釈のご引文『現代語訳下311、註釈版401』にお示しになっています。

大行釈ご引文

聴「ゆるされてきく」

聞「信じてきく」

真門釈ご引文

聴「ゆりてきく」

聞「信じてきく」

とご左訓でお示しになっています。

前回の会読で教えていただきましたが

「聴」とは場を与えてもらうということ。

本来聞く資格のないものが、如来さまに許されて聞かせてもらうということ。

罪深きものを責めず、ごまかさず、まかせよすくうと告げる親様のおよびごえです。

「聞」とはその如来さまの「および声」を聞くということ。

聞くことが条件ではなく、聞こえてくるままが、信となることを「信じてきく」とあらわされています。

8

如実の聞と不如実の聞と昔から言われます。

これは『往生論註』『七祖篇103』にある、二不知三不信の姿を指していわれます。

せっかく称名をしながら、信心を得て相続する喜びを知らない姿をお示しになっている。

二不知とは実相身と為物身、実相身は真如法性、為物身は方便法身(無礙光如来名)を知らない姿だ。と言われています。

実相身は(自利)為物身は(利他)、二利円満して、名号(お喚びごえ)となって私に届いていることを知らないのが、不如実の聞であり、はからいなく、如来様のお慈悲を聞き受けているのを、如実の聞といいます。

『親鸞聖人御消息第19通』『註釈版聖典777』に

「また「来」の字は、衆生利益のためには「きたる」と申す。」

とおっしゃって、『同31通』『註釈版793』には

「詮ずるところは、無礙光仏と申しまゐらせ候ことを本とせさせたまふべく候ふ。無礙光仏は、よろづのもののあさましきわるきことにはさはりなく、たすけさせたまはん料に、無礙光仏と申すとしらせたまふべく候ふ。」

とおっしゃっています。

阿弥陀さまは御自身の名をもって私にすくいを告げる仏さまなのです。

「あなたの煩悩がいかほど深くとも、悪くとも、さはりなくすくうぞ」と告げてくださっているのです。

これを蓮如上人は「たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし」

とおっしゃっています。

私の方には信心らしいものも、善根も何一つ用意できず、業のくさりに縛られる生活しかできませんが、如来さまは無礙光如来名となって、私にさはりなくすくうぞ。と告げてくださるのです。

この如より来生した、阿弥陀さまのおよびごえを、はからいなくそのまま聞きうけているのを、如実の聞というのです。

まかせよすくう を そのまま聞いて 救われてください。

というのが浄土真宗です。

9

何々派とか、何グループとかに私は所属していないし、自身の攻撃的な性格も災いして、そういう群れに入ることを好まなくなった。

なんでこんなぼっち的なことを前置きに書くかというと、人の言うことを信用するというより、人間の言うことではなく、お釈迦様、如来さまの示す言葉を信用して、自分の色をなるべく廃して物を言っている人を信用したいと思っているのです。

親鸞聖人は、聖道門の頭の堅い人が耳を傾けるのは、仏さまの言葉しかないと思っていたんだろう。

さて、およびごえというキーワードを私はよく用いますが、これは『顕浄土真実教行証文類』「行巻」『現代語訳上139、註釈版173』に親鸞聖人が、慈愍和尚のお示しとして、『般舟三昧経』に、このように仰っていますよ。

と御勧めくださるからです。

『般舟三昧経』による。

「慈愍和尚

今日道場の諸衆等、恒沙曠劫よりすべて経来り。

この人身を度るに値遇しがたし。

たとへば優曇華のはじめて開くがごとし。

まさしく希に浄土の教を聞くに値へり。

まさしく念仏の法門の開けるに値へり。

まさしく弥陀の弘誓の喚ばひたまふに値へり。

まさしく大衆の信心ありて回するに値へり。

まさしく今日経によりて讃ずるに値へり。

まさしく契を上華台に結ぶに値へり。」

現代語訳

「『般舟三昧経』によって慈愍和尚のつくった偈。

今日道場に集まった多くの人々よ、私たちはみな、はかりしれない昔から迷いの世界をさまよってきた。

今人として生まれたことを考えると、それは実に得がたいことである。

このことは、たとえば、優曇華がはじめて咲くようなものである。

今まさに、聞きがたい浄土の教えを聞く縁に会うことができた。

今まさに、念仏の教えが説き開かれるときに会うことができた。

今まさに、阿弥陀仏の本願がお喚びになる声に会うことができた。

今まさに、人々が信を得て往生を願うのに会うことができた。

今まさに、この経によって阿弥陀仏をたたえるのに会うことができた。

今まさに、人々がともに蓮の台座に往生することを約束するのに会うことができた。」

と仰せになっています。

ここに、今まさに、阿弥陀仏の本願がお喚びになる声に会うことができた。

とありますが、この御文が聞信義相のありようというものを、親しくお示しになっていると、いただくのです。


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