2/13 「自分を認められない病」と診断された日の日記
昨日、とうとう職場から連絡が来るまで起きれなかった。自分で連絡をできなかったという事実に半ば諦めを感じた。また休職がチラついた。
そして今日も。眠くもないのに身体が起きない。「アラームに気づいて仕事のために起き上がる」機能が身体から消えた、と思った。その事実に戦々恐々とした。冷静な判断は出来なかった。会社に遅刻の電話をした勢いで病院に予約をとった。誰かに「もう無理」と言って欲しかった。遅れて出勤し、そして病院のために早上がりした。
診察を受けた。結論として、休職には至らなかった。仕事をきちんとこなしたいという私の意思と、異動を希望している私の利益を最大限重視した結論。たしかに私は3月は丸々仕事に出たかったし、一ヶ月などという休職を取れば来年度の異動にも支障が出る。主治医はとても現実的だった。とりあえず心身の消耗を回復するために、来週いっぱいは有給を使って休むことにした。
それにしたって今の私は社会生活に支障をきたしていて、今の自分は医学的にはどういった状態なのか、いい加減知りたい。そう思い主治医に私の診断を聞いたら、「ずっと混乱している。あれもこれも全部やろうとしてキャパを超えている。」という答え。病名でも言われるのかと思っていた私はイマイチ納得できず代わりに原因を聞いた。「自分に自信がない。ちゃんと頑張って出来ているのに、そんな自分を認められない。やらなくていいことをやめられないで、やらなきゃいけないことができていない。のが原因。」と言われた。
ようは、自分のできないこと、できていないこと、やれないことを探すことがやめられないで、できたこと、できていること、やれていることを認めることが出来ていない、ということらしい。
主治医は病名を患者に伝えないタイプだから抽象的なことばかり私に伝えるのかと思っていたけど、そうではないらしい。そう思った瞬間、それが原因だったのか、と急に腑に落ちた。確かに主治医は今までも口酸っぱく同じことを言っていたが、それが「原因」だとは認識していなかった。
何故って、抑うつが酷くなる前は、主治医のそんな言葉を信じて「できた」に目を向け自分を認める努力をする余裕があったからだ。ただ、ここで「努力」と書いているように、もともと私は自分を認めることが下手だ。自分を認められずにうつになったのか、うつになって認められなくなったのか、鶏と卵のような話はさておき、私が「自分で自分を認める自信がない」ことは事実だ。そしてそれは、そんなにも根の深い問題なのか、ということに今日ようやく合点した。
例えば今回の「私は疲れているから休む」という行動ひとつとっても、私は誰かの「もう休め」という承認を欲していた。私が感じた「疲れている自分」に自信が持てず、誰かにそれを認めてもらえなければ休む資格はない、と強く思っていた。遡れば、疲れるに至るまでの「頑張った自分」を認めることができていなかったのかもしれない。
「ここまで頑張った。だから疲れた。休もう。」だとか、「ここまで出来た。だけど、ここからはキャパオーバーだな。」といった判断のうち、初手である「今できていることを認める」ことが出来ずに詰んでいたのかもしれない。
分解したら、少し正体がわかり、少し安心した。「認める」の解像度の問題だったかもしれない。
そして、「わたしが分からないわたし」という問題意識は、あながち間違っていなかったのだな、と思った。どこが分からないのか分かっていなかったけれど、自分で認めずに覆い隠してきた自分がどこにいるのかが、少しだけ見えた気がする。
言われたそばから「〜できない」ばかり振り返ってきたけれど、これは「認められないことを認めることができた」ことなので、大きな一歩としてカウントしたい。