「無理しないで」なんて言えない
相変わらずケイさんは忙しそうだ。私の部署では前例のない契約を取り付けて、顧客サービスの幅を格段に広げた。
それ以外にもなにかいろいろすごいことをやっている。仕事の話はあまりしないから詳細は分からない。でも、淡々とクールに見えて、内側で沸々と熱いものを持って最高の仕事をしているのは知っている。私はずっとケイさんを尊敬している。
「やばい。しんどい。疲れた。」
と喫煙所でこっそり私に愚痴をこぼすケイさんに、私がかける言葉はない。「お疲れ様です」と受け止める。
「あまり無理しすぎないでください。」
以前の私はそう声をかけていた。ホルモンバランスが不安定なケイさんは身体の不調と付き合いながら生きている。だから、あまり無理をして身体を壊すのが心配だった。
今でもその気持ちに変わりはないけれど、無理してでも最高の仕事を仕上げようとしているケイさんに「無理しないで」とは言えなくなった。
無理をして身体に負担をかけていることなんて、本人が一番分かっている。「無理しない」ができるのであれば、しないだろう。無理してでもやりたいこと、やらなければならないこと、自分が目指したいゴールがあるんだと思う。
「無理しないで」と声をかけようとする私はケイさんとは仕事が違うし、ケイさんが無理しない分を代わってあげられるわけじゃない。そんな私が「無理しないで」なんて、なんだかとっても薄い気休めのような気がしてきた。
だって、それでも、無理する理由があるんだもん。
私も最近、わけあって無理している。不調の具合から言って物理的に無理をしなければならないのは引き続き変わらないけれど、それでも動けるくらいの体力気力は回復してきていて、「こういう風に仕事したい」という、信念みたいなものに突き上げられて無理をしている。
それで疲れ果てて一日お休みをもらうこともあるけれど、「無理はしたけどやりきったな」「成果が出て良かった」という充実感もある。
やるべきことを自分の力でやって満足する結果を生み出せる達成感は、やっぱりなににも代え難い。満足する結果にならなくても、やれるだけやりきったと思えた時は、自分に納得できる。
本当に体調が悪くって、わたしの中のわたしが長いことどっかにいってしまっていた時は、なにをどうしたいもこうしたいもなくて、ただ日々最低限に身体を動かすのが精一杯だった。
目の前の最低限のタスクをこなすのにやっとだったし、なにか考えようにも頭は働かないし、それでもやっぱり「不達成感」は正常時と同じか、鬱的思考のおかげで5割増しくらいで積もり積もっていった。
やる気が出て少し無理をすると、その反動で一週間くらい休まないといけないこともあった。
こう思い返してみると、今の無理は「できる無理」なのかもしれない。
「無理をする」にも、いろいろある気がする。
とにかく、本人がある程度望んでしている「無理」は、それはそれで良いんだと思う。ケースバイケースではあるけれど、無理を承知で、無理をする確固たる理由が本人にあるのであれば、それはそれで、そのまま受けとめていいんじゃないかな。
でも、無理していることに変わりはないから、無理した分どこかでパアッとリフレッシュすることは大事だと思う。じゃないとやっぱり、身体が悲鳴を上げてしまうから。
私は最近「無理しないで」の代わりに、「無心で風呂につかろう」「ホットタオルを肩に当てよう」「このめちゃくちゃうまいココア飲んで」と伝えている。
無理をするのは覚悟がいる。信念みたいなものがないと潰される。無理は途中で遮ってしまうと、再起動まですっごくエネルギーを使うこともある。それでも無理する覚悟を持って無理をしている人には、「無理しないで」じゃなくて、「ほんのすこーしだけ、一息ついて。身体が喜ぶことしましょ。」くらいのことを伝えていきたい。
今週もがんばりました。なんとか。それはとても嬉しいことです。もう少しゆっくりお風呂に浸かって、今日は私を存分にゆっくりさせてあげたいと思います。