最近の雑記

とにかくがむしゃらに働いて、気づいたら別の部署に異動することが確定していた。適応障害として休職もした私が言うのもなんだけど、今の仕事は信念を持ってやり甲斐を感じてやっているから、あと一年しっかり働いて「やれることはやったぞ!」という状態までやり切りたかったなあ、なんて調子のいいことを思ったりする。

そうは思うけど、あの上司と働き続けることは身体が拒否しているので解放感もある。

だからといって、異動したら良い上司がいて良い同僚がいるとは限らないのだ全く。

結局、どんな環境に身を置いたとしても自分を守るのは自分しかいない。ということには気づけた。環境と上手く折り合いをつけて、嫌なことにはケッと悪態ついて、家に帰ったら自分の生活を自分のためにしていくしかない。

そういう意味では、新卒配属ひとつめで最高な上司と最低な上司を経験して、夫の体調の波も良い具合に常に乱高下してまあまあの難所を経験し、どんな状況で自分がストレスを溜めてしまうのかというのが分かったので良かったなと肯定的に捉えている。

周りに多大なる迷惑をかけはしたけど。迷惑をかけたのは百も承知で、それでも理解し支えてくれた職場の方々には心から感謝している。この感謝は忘れずに私がこれからに還元していくんだ。


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私は非言語のやりとりで正解を導き出さなければならない、と思ってしまうことにとてもストレスを感じるみたいだ。

私の上司は話すのが壊滅的に下手くそで、あれこれという指示語を多用する。どれだけこちらが具体的に単語を提示して、文を区切って意見を聞いてみても「そういう感じってことだよね」と返すような人だ。

結局相手がなにを考えて、どういうプロセスで答えを出したのかということが曖昧なまま、裁量の大きい仕事にゴーサインを出される不安。まあ上司は自分の言葉に組み立て直すだけの頭の機能がないんだと思うけど、仕事上で言語のやりとりがうまくいかず得られた少ない情報で正解を導き出そうとし続ける作業は、とても負担の大きいものだった。

これは言語のやりとりができる他の職員とのやりとりで補完することができると気づいたのは、休職して半年経って、だいぶ体調が良くなってきてからだった。あぶない。

上司に限らず、夫との間でも非言語のやりとりは生まれる。元来夫とは言語コミュニケーションはびっくりするくらい心地よくできるのだけど、鬱と鬱が一緒に暮らしていると、どちらも自分の状態を言語化できないくらい悪化する時がある。

少しでも刺激のあるやりとりが出来なくなってしまうのだ。そうして上部だけをなんとか取り繕っていると、非言語のモヤモヤが溜まっていく。相手の状態もロクに把握できず、自分の状態もロクに把握できず、かといってお互いがお互いの状態に気づけるほどの気力もなく、なんとなく個々に自分の中に湧いてきた情報だけで正解を導き出そうとする。

自分の見えないものと対峙しながら、相手の見えないものにも対峙して、その中で言葉が機能しないというのは、頭の中のキャパシティを壮大に喰らい尽くす。

そういう時は、結局手探りでもなんでも、話をしてみるしかないのだ。それが刺激を伴うものであっても。ただし、刺激に劇弱であることは自覚して、お互いに相手への愛情を忘れずにやりとりをすることは気をつけないといけない。

人と人は、最終的には言葉に出して伝えないと何も伝え合えられないんだ。言葉のないまま空気だけを察知してしまうと、見えない魔物と終わりなき闘いを繰り広げることになる。

ただ、なんでもかんでも言葉で伝えればいいとも思ってなくて、空気でやりとりできるものもある。ただ、悪いことに関しては拙くても手探りでも言葉を交換しあって状況を共有することが大事なんじゃないかなあ。


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体調が良くなってきたから、「うわっ、それいやだわ!〇〇なところがいや!」というような、嫌だと思う気持ちへの感度が高まった。

これって思ってる以上に大事な機能だなと感心していて、反射的に頭の中で「それいや〜」という声が聞こえるようになってから、あっ私今嫌だと思っているんだな、とその場で認知することができるのがスゴイ。

「いやだけどここはニコニコしとこ」とか「いやだけど何でいやなんだ?」とか「いやって素直に伝えとこう、ここは!」とか、嫌だという感情に対して適切なアプローチをすることができるようになった気がする。

これができる前は「(えっえっえっ)ハ、アハハ」とニコニコし、その後もずうっと正体不明のモヤモヤを抱え、随分経ってから「あれっていやなことだったんじゃ…?」と気づいていた(もしくは気づかないまま終わった)。

そうするとモヤモヤに常に気力を奪われるし、気づいた時にはすでに解決策を考えるほどの思考力が残っていなかったりする。

嫌だという感情も、自分の感情として大事に気づいてあげないといけない。そこから嫌を無加工で相手に投げつけるか、原因を考えて対策を練るか、諦めて迎合するかは、また別の次元の話だ。

一次産物である自分の感情は、それがどんなものであっても、気づいてあげることが大事かもしれない。

感じ、考え、行動する、を自分軸とすることを知識として学んでから、実際に「感じられる」ようになるまではかなりのタイムラグがあったけど、逆に言えばそのはじめの一歩はとても大きな一歩だと思う。

私は松浦弥太郎さんの本に出会って、自分のスタンスに近しい人の言葉を言葉として吸収することによって、自分の言葉、自分の感情に気付きやすくなった。

人の言葉というのは、やっぱりヒントになる。


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ツイッターなるもので、鍵をつけずに呟きの世界に参入してみたものの、140字の世界はやっぱりすこし狭すぎた。あんまり大きな題材な話題をすると140字で何百人伝言ゲームばりのすれ違いが生まれるみたい(見てるだけだけど)。

でも、いろんな意見に触れるだけの余裕ができたのかもしれない。本当は「おなかすいた」くらいのことでキャッキャしてたい。難しい話をするには難しい。余裕がなくなったら見ないでおこう。

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