弱さを見せる強さと脆さ

最近の私はわりと元気にすごしています。

大きなストレスがあったのだけど、それをきっかけに弱さを人に見せて相談するようになった。
今回のストレスに限らず、今まで少しずつ積もり積もったストレスが、ようやく自分でも少しずつ「何がストレスなのか」「どうしてストレスなのか」を人に伝えられるくらいの形で認識できるようになったことが大きいと思っている。今までのモヤモヤが一斉に少しずつ、捉えられるステップに入ってきている気がしている。


だけど、いくら自分で分かっていても人に言わない時は全く言わないので、自分の外に出すというのは大きな変化だ。そして、やっぱり人と話すこと、人に見せることで、救われることも多々あるということを痛感している。


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今日は診察だった。最近はストレスを自分で認識できるようになり、おかげで人に話したりして対処できるようになった、ということを話した。
今までの私は診察でも「何が辛いのかいまいち分からない」と伝えていた時期が多かったので、そういう意味でも大きな変化だと思ったからだ。

「今まではもしかしたら、言わない・捉えないことで自己防衛していた時期だった、ってことも、あるかもしれないね」

「だってほら、弱さを見せると、その分脆くなることもあるじゃない」

主治医に言われた言葉。
私に対してのその見立てが実際正解かどうかは分からないけれど、たしかに「弱さを見せることで脆くなる」ことってあるよな、ということを思い出した。

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弱さを人に見せる、自分はこう思っていて辛いということを人に話す。そのことで、他者から弱い自分も受容してもらえたり、自分とは違う視点からアドバイスをもらえたり、自分の中で抱えているままでは得られないものを得ることができる。

その一方で、それは自分自身がその問題と正面から向き合う覚悟も必要とすると思う。
自分の中だけにとどめておけば、それは誰にも分かられない。自分の中には存在するけれど、言葉で外に出さなければ、外の世界では、それは無いようなものだ。

外に出さなければ、その間においては、自分の中では変幻自在だ。Aと思ったままAであることを言いさえしなければ、自分の中でいつかBに変わったとしても、それは誰にも分からない。
Aと思っていた過去を隠してBであることだけを言ったとしたら、この世界ではBと考えている私だけがその存在を認識される。

逆に、Bと言葉にして自分の外に出すと、もうそれは一つの確定事実だ。私はBと言った私を認めなければ、受け止められなければならない。

言葉にして捉える、言葉にして外に出す、ということは、ある意味そういった覚悟が必要。


そして、外に出したがゆえに、弱い自分を受け止めきれずに弱さに負けてしまったり、人から返ってくる反応を受け止めきれなかったりして、脆くなってしまうことも、ある。
だからといって、あんまり外に出さずに自分の中だけでどうにかしようとすると、手に負えないくらい大きくなって自分に押しつぶされてしまうことも、ある。バランスが難しい。


今まで「分からない」という言葉でカモフラージュして、ただ自分の中でのみ存在する様々なモヤモヤを、少しずつ時間を掛けてどうにかこうにか自分自身で向きあえるくらいの形に持っていったのだとしたら、「人に“言えなかった”」その時間も、たしかに必要なものだったのかもしれない。


人に言えない、伝えられない、自分で言葉に出来ないことが、悪いだけのものじゃないと思ったらなんだかその時間も大切にできるような気がします。

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