振り戻しと気づき。|2020.5.22 日記
一難去ってまた一難、ぶっちゃけありえない
初代『ふたりはプリキュア!』の主題歌の歌い出しだ。久しぶりに歌詞の全文を読み返してみたら結構いい歌だった。『おジャ魔女カーニバル』しかり、昔のアニメ主題歌は、大人になってから口遊むと心にぐっとくるものがある。
今の私は彼女達のように「ぶっちゃけありえない‼︎」なんてハツラツと言い放すほどの心境ではなく。
でもふとプリキュアを思い出せただけ、いいじゃん、という気持ちになる。ひと匙の笑い。余裕。
コロナ渦というのは、やはり家庭内での問題を如実に顕在化させるなと思い知らされた。
休日の昼下がり、妹から「おねえちゃんのおうちにいっていい?」と連絡が来た。コロナになってから、電車で都心を何個も経由しなければいけない我が家に妹が遊びにくることなんて母が許さなかったので、妹が勝手に言っているだけかな、なんて思っていいよと返した。
一応電話で話を聞くと「パパとママがけんかしたから“いえで”するんだよ〜!わたし、いえでなんてはじめて〜!いっえっで〜!」と妹。はじめてのディズニーランドくらいのテンションで随分とシリアスな事実を告げられる。
とりあえず母に聞いてもどうやら事実のようで承諾した。のだけど、玄関で母と妹を迎え入れた時、キラキラと笑う妹と、その後ろで大きなキャリーバッグとボストンバッグを抱えて苦い顔をしている母をみた私の顔は、気持ちの落とし所がわからずにすごいことになっていたと思う。
母と新しい旦那さんは双方にいろいろな問題を抱えている。そのため何年か前からカップルカウンセリングも受けているのだけど、コロナになってからは通院していなかったらしい。母は「効果覿面だよね……」と通院を中断したことを重く受け止めつつも、コロナで生活リズムを乱して症状を悪化させた旦那さんだけを「病識がない」と言い放ち、二人して病識が乏しいことを感じさせられた。
二人の問題はあまり関わらないようにしているので生活の詳細なんて分からないけれど、コロナでお互いに在宅が増え小さい子どももいるというハードな環境で、すごく小さなきっかけからプツンと糸が切れてしまい、とうとう旦那さんが母に手を出してしまったらしい。
これまでも、口が達者で自分の正しさを貫こうとする母と、言葉で組み立てて主張をすることが苦手な旦那さんの間では、旦那さんが言葉が出ずに手を出してしまうということが何度かあることは知っていた。母も母で論破癖があるので口答えできずにわあっとなってしまう気持ちは分かるのだけど、手を出してしまったら終わりだ。
そんなわけで“いえで”をしてきたのだけど、とりあえず今日、母がいろいろなところに相談して支援してもらいながら、ひとまずの落とし所を見つけて帰宅し(できるだけの策はうってある)、我が家も日常を取り戻した。
私が一応援助職として働いていることもあり、こういう時は母から真剣に「相談」として相談を持ちかけられるようになった。私も私の生活があるので(重要)、私がいなくてもいろんなところに助けてもらえるように、母と妹、そして旦那さんがそれぞれの支援網を確保できるように「どこに相談するか」をアドバイスするくらいに留めるよう心がけている。家族としてやるのは、妹の味方でいることと話を聞いてあげること、普通に過ごしてあげることくらいだ。妹のことは心配だけど、私にできることは限られている。
それでもどっと疲れてしまった。
なまじっか、私のアドバイスも、私が社会人になり仕事を得て様々な知識を習得していくうちに様になってきてしまって、初動はほとんど私のアドバイス通りに事が進んでしまうことも、どこか責任を重く感じてしまうのかもしれない。
家族のこととなると、職場を出たら連絡がこないという風にもいかなくて、線引きが曖昧なまま、ずうっとダラダラ考えてしまうのもよくない。
なんだかいつも、結局振り回されては、引きずられないようにと心がけつつも、「もっとなんとかしなければ」みたいな気持ちが名残のようにくすぶって自滅する。
少し前にパラパラと流し読みした『共依存ー自己喪失の病』(2000,吉岡隆 編)を読み返した。全部通して吸収する元気も余力もないので、またパラパラとめくってみただけなのだけど、対人援助関係における共依存について次の文を読んで、毎度毎度痛手を負うことも無意味ではないのかなあと思えた。
共依存にならないために共依存を経験する
共依存はある意味では、はしかのようなものだ。(略)クライアントに巻き込まれて初めてどのような距離のかかわりがふさわしいのかがわかる。クライアントをコントロールしようとして初めて、それが無駄なことであり、ワーカーの限界を超えたことであることを悟り、クライアントの中にある回復の力と可能性を信じることができるようになる。
〔引用:『共依存ー自己喪失の病』p116〕
彼との関係も、母との関係も、これまでいくつもの修羅場をくぐってきた。たしかにいつもダメージは負うのだけど、少しずつ距離の取り方はよくなってきているかもしれない、とポジティブに今回を捉えてみる。
ゲームのラスボスの範囲攻撃がわかり、少しずつかわせるようになるというか。ダメージの受け方がわかってくるというか。まあ、それまでに何回死んでるかわからないのだけど。しかもいつも、倒したと思ったら形態変化して、また予想できない技を使ってくるのだ。現実はしぶとい。
でも、毎回しんどいけど、それが次に生きなかったことはない。以前なら自分を犠牲にしたり、母が家族以外の支援網を獲得することを考えずに、「私がなんとかしなきゃ」を有言実行して、渦中に身体も心も飛び込んでいたかもしれない。
たとえ少しであったとしても、トライアンドエラーで、視野は確実に拡がっている。
なんでいつもいつも私の周りではこうも問題だらけなんだ!!と、その場足踏みして、私の不満と不安とべったりくっついて、鬱の沼にズブズブ浸かることもできるのだけど、それはしない。
疲労との均衡を取ろうとするあまり、今週はほとんど仕事を休んでしまったので、申し訳ないけれど、自己嫌悪しても過ぎてしまったので、来週しっかり挽回することにする。
とりあえずひと段落したのだから、もう鎧を脱いで、身体をぐーっとのばして、とりあえず元気になろう。