要支援1の父、施設に入所する ②〜はじまりは2022夏〜
85歳の誕生日を迎えた月、8月30日の夜、父は救急搬送された。父はおそらく疲れ切っていた。
しかしそれは私も同じだった。
8月2日、長いリハビリ入院を終え、母は自宅へ帰ってきた。
右半身麻痺、車椅子生活となった母の介護が始まった。
補聴器をつけても会話が成立しない父は、
「聞こえないから面倒はみれない」
とよく言っていた。
しかし、
『母を施設に入れる』
この選択肢は私にはなかった。それは母も同じ。
介護経験者なんて誰もいない。ましてや母は右半身麻痺で車椅子の生活。
不安がないわけがない!!
でも介護をするのは家族だけじゃないと思っていた。
ケアマネジャー、訪問リハビリとデイサービスのスタッフ、福祉用具、手厚いサポートが整っている。
不安はあるものの、安心材料もたくさんある。だからなんとかなると思っていた。
しかし、現実はなかなか厳しい。
一番大変なのはトイレだった。病院とは勝手が違う。自宅のトイレに慣れなければならない。一から覚え直し、全てに介助が必要だった。
しかも夜2時間おきにトイレに行く。介助のため、その度に起きなければならない。
朝起きたら着替えの介助、食事の世話、洗濯などやることはてんこ盛りにあった。
父はおもに洗濯、夜の母のトイレの介助を担った。
この夜のトイレの介助は、父の希望で母と同室て寝ていたこともあり、母が起きると一緒に起きてしまうので、必然的に父が担うことになった。
私が気がつけば変わるのだが、耳は聞こえず、就寝中は補聴器をつけていない父には、「変わるから寝ててもいいよ」という私の言葉は何度言っても届かなかった。
当然のように父は疲れ切っていった。
「昼間はそんなに世話をしなくてもいいよ」
「母ができることは母にやらせないとダメよ」
「休む時間を作らないとダメだよ」
補聴器をつけていても会話がままならない父には何を言われているのか理解することすらできなかったんだろう。
ある日、私の留守中、父は母にケガをさせた。
血がサラサラになる薬を飲んでいる母は、血が流れるようなケガをしてはならなかった。
しかし、ケガをさせてしまった。転倒さけてしまい、肋骨にもヒビが入った。
私を含め、他の家族から不注意を責められた。
ワザとじゃない。そんなことはわかってた。その後は特に何も言わなかった。父の役割が少し減ったくらいだった。
「もう、恐い」
そんなつぶやきを聞いた。
私は何も言わなかった。
私だって恐い。介護は初心者だ。どうしたらいいのか不安でたまらない。(不安なことは訪問リハビリのスタッフさんに聞いている。ケアマネさんも協力的)
サポートしてもらえてるからやれている。
しかし、8月30日夜、父は薬を飲んだ。
何が起こったのかわからない私たち家族に、救命救急医は、父の体を調べ、告げた。
有機リン中毒
父は、母と私たち家族を捨てた。