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大阪と東京の本当の言語の壁

はじめに

私は生まれた頃から大学を卒業するまで大阪で過ごした。正確には生まれは神奈川県だったらしいが、2歳までには大阪に引っ越したため、私の故郷は完全に大阪である。

食い倒れ
天下の台所
東洋のマンチェスター

古来より商売文化が根付いた大阪では、人に提供するのはなにもモノだけではない。サービス精神の根幹とも言えるのは笑いとユーモアの提供である。

そんな大阪でおおよそ20年を過ごした私が上京して知ったことは、あまりにも言葉の壁が大きいということだった。

本当の言語の壁

大阪の方言はいわゆる「関西弁」と呼ばれることが多い。まぁ地元の人間からすれば近畿7県はすべて違うため、「関西弁」というよりは「大阪弁」であるとか、
大阪の中でも北と南では違いがあり、ざっと分けてもさらに3つくらいには分けられるだとか、そういう細かいことを言うとキリはないのだが、今回はひっくるめて「関西弁」とする。

私は大学時代、ゼミの研究テーマが「方言」だったことや、そもそも専攻が日本語教育だったことも相まって、関西人には珍しく、標準語は得意な方だった。

…いや、得意「だと思っていた」。

関西弁と標準語の壁は何も方言の問題だけではない。実は会話の仕方がそもそもちがうのだ。


「話にオチがない」とはどういうことか

子どもの頃、大人たちからよく言われた。
「東京人は話にオチがないからおもんない」。

大阪人は(なぜか)東京人を敵対視する傾向にあるため、こういった話題はある種のネタとして昔から定着しているのだ。

当時若かった私は【話にオチがある】とはそもそもどういうことなのかわからず
(「そもそも大阪やからっていつでもおもしろさとかオチ求められるんもちゃうけどな。」)
と思っていた。

しかし実際に東京に来て、東京の人たちとよく話すようになってわりと早い段階で思ったことはこうだ。

「あぁ…話にオチ…ないなぁ…」

関西人同士の両親の元で物心ついた時から大阪で育った私にとって、「話にオチをつける」という行為はもはや血液のようにあたりまえに体内に流れているものであり、
私は失ってはじめて自分にその血が通っていたことを知ったのだ。


会話スタイルにおけるカルチャーショック

あるとき、友人がこう話しかけてきた。

「ねぇ、(インスタの画面を私に見せながら)この友だちがさ、今妊娠中なんだけど、うちと出産月同じっぽいんだよね。」

…うん。
………?????
…そうなんだ!

私には全くその発言の意図がわからなかった。

「え…だからなに?」という言葉をなんとか飲み込んだ。

まずその友だちのことを私は知らないし、出産が同じ月だったからなんなのだろうか。
そんなことを言いたいならツイッターで呟けばいいんじゃないのか?とまで思ったほどである。

これを読んでいる関西人以外の人には私のこの反応もきっとよくわからないのだろうし、なんて冷たい人間なんだと思うのかもしれない。
これが「オチがない」ということだと気がついたのはもう少し先の話である。


東西の会話スタイルにおける相違点

その後もこういったことが何回かあり、
私も私自身がなぜこんなにも会話に違和感を覚えたのかをよく考えてみた。
すると、そもそも東京と大阪では会話スタイルが大きく異なるということに気がついた。

例えばディズニーランドに遊びに行ったことを人に話す場合を東京人同士、大阪人同士で想定するとこんな感じである。

〜東京の場合〜

A「このまえの春休みに家族でディズニーに行ったんだよ〜」
B「いいなぁ!すごく混んでたんじゃない?」
A「どこ行っても人だらけで大変だったよ笑 でもアトラクションは結構のれたんだよね!」
B「そうなんだ!何と何に乗ったの?」

〜大阪の場合〜

A「このまえの春休みに家族でディズニーに行って、めちゃめちゃ混んでたんやけど、行く前に裏技調べたら奇跡的に新エリア入れたわ」
B「まじ!あのめっちゃ入るの難しいとこやんな。私も行きたいわ〜 オフやったらもうちょい簡単かな?」
A「いやー、、どうやろな。ぶっちゃけいつ行っても混んでるからいつでも同じな気がする」
B「そうよなー。来年くらいにチャレンジしてみるわ」

東京人は相互の会話キャッチボールを持ってコミュニケーションを成立させるのに対し、
大阪人は1ターンずつ選手交代していくというような感じである。

東京では相手の話に一回一回リアクションと返答を行う。先例の友人の話に対して私は本来
「そうなんだ!なんの友達?」
「へ〜〜すごいタイミングだね!」
こういった返答をすべきだったのだろう。
そうしてその私の返答に対し、また友人が返答をし、こうやって会話を構築するのだ。

しかし大阪では相手のターンが終わるまで決して邪魔してはいけない。
文章には起こしていないが、
「うんうん」「それで?」みたいな小さな相槌やリアクションをこまめにはさみ、相手が気持ちよく話せるようにプッシュするのが模範的である。

文章量の問題でかなり簡略化しているが、
《①すごく混雑していた》→《②でも新エリアに入れた》の構成をつくるために、①をいかに工夫して長く伝えつつ、それによって②の盛り上がりを生むような話し方をするだろう。
入り口がいかに混んでたか、そもそも入るまでに何時間かかったとか、なんとしても新エリアのアトラクションのチケットを取るのに全員のスマホで一斉にすべてのエントリーをしたとか、そういうところから話を盛り上げるのだ。

先例の件は私は友人に対して「うんうん」で話の続き待ちだったのに、私が返答しないせいで絶妙な数秒間が流れてしまい、「え…だからなに?」に繋がってしまったのだった。


使い分けることにした

私にとっては「話にオチをつける」というのは息をするくらいあたりまえのことだった。関西を出るまで、話にオチがないとはどういうことなのか検討もつかなかった。周りの人間が全員話にオチがついているのだからそれが会話の仕方として当然だった。

関西外では相槌を打ちながら相手のターンを盛り上げるという文化もなければ、
実は何かを話す前に

(「この話…しようかと思ったけどおもしろくないから話すのやめよう」)とか

(「あの話をおもしろく話すには…こう話してこう持っていってここで…ウケを取る。」)とか

そんな作戦を考えながら話してるなんて、東京人には全く理解されない話なのだろう。
しかしこれらを関西人は日常的に、それもほとんど無意識下で行っている。

最初の方に、私は標準語が話せると言ったが、
今では標準語で話す時には脳を切り替えて会話をも東京スタイルでのコミュニケーションをとることを心がけるようになり、ずいぶん会話がしやすくなった。

ただしもちろんだが大阪スタイルの会話の方が私にとっては合ってるし、それもあって年末年始の帰省は私の何よりの楽しみである。


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