「推しは推せる時に推せ」と聞いたことがある
滅多に外に出ない私でも、めずらしく外での仕事のとき、それが思いの外早く切り上げられたときはよくそのまま帰らずにひとりふらっとカフェなりファミレスに立ち寄ったりする。
家に帰ってもどこにいても仕事的にはやることは同じだし、どうせならうきうきしたいなぁくらいの気持ちで、だけど本当はひとりでカフェしちゃったりなんかしてる自分が好きなだけなことをもうひとりの冷静な自分が静かにツッコむ。
今日はそんな昼下がり。渋谷にある『森の図書館』というカフェに来た。
そういえば今日だか明日だか明後日だかに梅雨が明けるらしいと、今これを書いている30分前に知った。
別に気温は高くないのに、ちょっといらっとするような、むわっとする曇り空の下、駅からてくてくと歩いて向かう。今日おろしたてのサンダルの上部にあるリボンが皮膚の薄い私の足をいじめてくるせいで、700メートルが意外と遠く感じる。
ぐるっと本棚に囲まれたカフェ、どちらかと言うとカフェよりは図書館に近いような店内。
息を吸ってみる。
古紙のにおいと、それに寄り添うようなテーブルの木のにおい。
本棚のひとつに見つけた本
前からすごく気になっていたのに、なぜか私のAmazon Kindleのご機嫌がナナメなせいで買いそびれていた本
『推し、燃ゆ』
大好きな推しが炎上した、そのときの主人公の心の移ろいを描いた作品
インフルエンサーのマネジメントを生業とする私にとっては、演者が燃ゆることも、ファンからの燃ゆるような眼差しも、まるで自分のことのように経験してきた。
年齢が10も下のインフルエンサー
子育てってのはこういう感じなのだろうかと思ったりする。
そんな彼女がたわいもないことで数ヶ月前に炎上した。
人はこれほどまでに刃物のように言葉を投げつけることができるのかというくらい、
彼女は顔も住んでるところも何も知らない人たちからの暴力的な言葉の数々を受けた。
一度ネットにあがったものは二度と消えない。
言葉のナイフに切り付けられて、それは永遠に消えない入れ墨のように彼女に痛みを、心臓という彼女の核に突き立ててきた。
「ずっと待ってる」
「大好きだよ。何があっても。」
そんなファンの言葉はそんな渦中の彼女の支えになった。
彼女の過ちに対しての評価ではなく、
ただその愛を伝えたいという一心のその言葉たち。
親が子どもの失敗を見ても、
叱りこそすれ、にくむことがないように。
例えどんなことがあっても、愛し続けられるように
悪いことは悪いと言わないとファンではないとはよく言われるが
ファンが彼女を愛しているのは、彼女がどうであるとかそういうことじゃなくて、
彼女自身を丸ごと愛しているからで、そこに何も理由はないらしい。
そんな学びをふと思い出す仕事帰りの午後。