言葉は矢印→ ここらでmissionを考えてみたいと思う
身近すぎると大切さになかなか気づけない。
当たり前であればあるほど、近すぎて、感じられなくなる。
でもあえて拾い上げて感じてみる。
それが日々のせわしなさから逃れて、目の前に溢れる一瞬一瞬を深くじっくりと感じるためには必要なことだと思う。
わたしたちは、いつも言葉にざわついたり、傷ついたり、助けてもらったり、涙を流したりしている。
言葉って思っていた以上に大切なんだなと、実感をもって感じている最近。
誰かと会話したり
本を読んだり
チラシを読んだり
ラジオを聞いたり
YouTubeをみたり
レシピを見ながら料理したり
たいてい、どこかの誰かが発した言葉だったりを受け取り、それに反応したりしている。そうでなかったとしても、他者と一切接点がなかったとしても、わたしたちは頭の中で自分と会話をしている。
だから、「言葉は使っていない」という人はこの世には存在しない。
(言葉を覚える前の赤ちゃんは例外かな。あぶあぶー。それも赤ちゃん語といえるかな)
これまで、自由自在に操れる言葉というものに対して意識が薄かった。といっても、外に向けての言葉は結構こだわってきたんじゃないかと思う。それが十分かどうかは別として。私なりに丁寧に紡いできた。
でもそれは、書き言葉が中心で、話し言葉にそこまで意識を配ってきたかと問われると、残念ながらそうでもない。
話し言葉において、何を重視して何を大切にしてきたか?と問われたら、わたしはわたしが傷つかないように言葉を発してきたように思う。
丁寧な言葉や優しい言葉を選んでいたつもりでも、根底の本流に流れるものはどこまでも自分本位。
それは、これまで数十年と人と関わって、交わっていく人生の中で、それなりに傷つき、傷つけてきたから。
もう傷つきたくないし、傷つけたくない。傷つけることで傷つきたくない。
だからこそ、意図せずとも人と話すときに「傷つけない」という事が頭の中の多くを占めていた。
_傷つきたくないと思って逃げることを選択してきた
傷つき・傷つけそうになるとわたしは逃げてきた。
もうそれ以上踏み込まないように。見ないフリした。
スルスルと腫物を避けるように。
でも本心は違って。
ほんとうはもっと人と濃くつながりたい
真正面から向き合える人でありたい
お腹の底ではそんな風に思っていたことに気づいた。
_言葉は矢印 とは?
言葉って、モヤモヤとくぐもった捉えどころのない靄の中から
ひとつ拾い上げてその事象だったり物体だったりを明確にクリアに掴むためのものだと思う。
これまで見ないフリしてきたことも、言葉にしてしまうことで逃げられなくなったりとか、はっきりと自覚してしまったりだとか。
言葉ってそういうものだと思う。
明確に方向性が定まるような、そうだよって断定されてしまうような。
言葉をもらうと必然的に、無意識的に引っ張られていく。そっち側に向かっていく。まるで「あなたは○○行きです!」と告げられてしまったような。
そういう意味で言葉は自分の方向性を示してくれる矢印。
自分だけじゃなくて、他者に対して矢印を与えることにもなる。
そう捉えると、言葉をもっと丁重に紡いでいきたいと思った。ある意味覚悟に似た気持ちが時には必要かもしれないなと思う。
だって矢印だから。そっちに向かっていくから。
どうせ向かうなら、優しくてあたたかくて、自分を含めた周りの人がふわっと包まれるような矢印を差し出したい。
_やっぱり大切 ミッションビジョンバリュー
今やだれもが知っているであろう、MISSION・VISION・VALUE
企業でなくても、フリーランスでなくても、だれにとって重要。
つまりは、あなたはどう生きたいのですか?という問いだと思うから。
このとっても有名なフレーム。知っていたけれど、ずっとずっと言葉にしていいなかった。大事なことと「わかっていた」けれど「できて」いなかった。
言葉で決めてしまう事のこわさ
矢印を定めてしまうことのこわさ
つまり「こわさ」がそうさせてきた。
でもここらで考えを改めて、自分の生き方を言葉にしていくことに取り組んでいきたい。
矢印→を持たないことでの、あやふやさから卒業したい気持ちになってきた。
こんな風に自分とやさしく話しながら決めていこうと思ってます。
別に変わったっていい。
変わることをくり返しながら、揺らぎながら定まっていくものだと思う。
(という余白を自分の中に残しておきながら、それでも矢印をつくる。)
まずは言葉にしてみなくては、揺らぐこともできない。
よし。ミッションを高らか軽やかに宣言しよう!
(自分の中のワタシに向けて高らかに)
また書けたらnoteに書きます。怖いけどがんばるゾ。