面倒で仕方なかった料理が「癒し」に変わるまで
料理をするようになって、早10年。
結婚をし、家族をもったのと同じ頃、本格的に料理をするようになった。一人暮らしをしたことがなかったので、ちょっと遅咲きの29歳ごろだった。
ひと昔前と比べて、確かに、女だから…男だから…というような「役割」に当てはめて物事を考えることは減ったけれど、それは完全になくなったわけじゃない。
この役割を担っているのは確かで。
担うからには、「こう在りたい」という理想が勝手に出てくるのが人間だと思う。
わたしの「母だから、こう在りたい」は色々ある。
・自分の好物を分かってくれていて、いつもお弁当に入れてくれる。
・季節が変わるといつの間にか、あったかい布団に変わっている。
・家を心地よく整えてくれている。
・くだらないことを一緒に笑い合ってくれる。
・ぎゅーって、だいすきだよって抱きしめてくれる。
わたしが、わたしのお母さんにしてもらって嬉しかったこと。
大人になってからも自分の中の陽だまりみたいに残っている事。
それはやっぱり、我が子にも手渡していきたい。
とりわけ、家の中を整える事。
掃除や料理、いわゆる家事はちゃんとできたらな~と、自分が想像するよりもはるかに強い気持ちで思っていた。(とここ最近気づいた)
母生活もそろそろ10年。
料理については「ちゃんと」作ってあげたいとずっと思っている。
その「ちゃんと」っていうのは、
栄養があって、見た目がきれいで、身体に悪いものが入っていない。ということ。言葉にするとシンプルだけど、結構大変です。
_でも母じゃないわたしもたいせつで、稼ぐことも大事じゃないか?
母としての理想を抱きながら、自分の人生を生きたいという想いも強くて。それが、子ども達にも伝わると思っているから尚更余計に想いが強くなる。
主に「はたらくこと」を大切にしてきた。
だから、本当はこうしたいという気持ちがあるのにそれを無視して、仕事・働くにアンテナを立て続けていた。そしてそれに伴って行動もしてきた。
そうなると、母としてのわたしがどんどん霞んでくる。
そんな風に願いながらも行動が伴っていなくて。
結果的に自分を苦しめていた。(とこれまた最近気づいている)
仕事をすることも、お金を稼ぐことも大事だけれど
でも本当に大切にしたい真ん中のまんなかは、そこじゃない。
10年経ってやっと、そう思えるようになった。
それは、息子がもうすぐ10歳で、親子ベッタリ時期を卒業しようとしていることへの焦りがあるからかもしれない。
_PCに向かうのに疲れたから人参を切ってみた
その日も17時ごろになって、のろのろと夕飯の準備をはじめた。(我が家の夕飯は18時~19時)
献立は特に決めていなくて、寒かったから、鍋だ!
と食材を切るだけで用意の終わる献立にした。
でも、感覚的に「今こころがささくれ立っている」と感じて・・・
こういう時はどうしたらいいだろう?と考えた。
目の前にある人参。
ほんとうはピーラーで薄くしてお鍋に入れるつもりだったけど、千切りにしてみた。いつもより丁寧にゆっくりゆっくりと。
そしたら、不思議と心が静かになっていった。
食材を扱う手も、食器を扱う手も丁寧になった。
感情の波にのまれているときに、
目の前のひとつひとつを丁寧に扱うとイイ。と聞いたことがあって、それを実行したわけなんだけど
正直ここまで効果をスグ得られると思っていなくて、驚いた!
「こうやって料理しているのも家族がいるから(自分だけだともっと適当に、適当な時間に食べると思う)」というところまで視座を上げられるようになった。驚いた!
前に、料理=家族の明日をつくっている と思ったら楽しくなるよって誰かに言われたんだけど、、
全然ならなかった。プレッシャーが大きくのしかかるだけ、、
ますますしんどくなった。
わたしにはこれがフィットした。
こういう言葉の定義は、人それぞれフィットするものが違う。
誰かの定義を一度受け入れてみて、違和感を感じたら、どんどん更新していく。なかなか見つからなくてもどんどん更新していけば、必ずフィットするものに出会えるんだと思う。(・・・5年くらいかかったかも)
相変わらず料理を面倒だな~って思う日もあるし、心がささくれることはこれからもきっとある。
でもまたしんどくなったら、人参を千切りにする。ゆっくりゆっくり。
必殺技を手に入れた気分。
きょうは最近ハマっているオムライスにする。
豆乳と米粉でホワイトソースにもトライする。
たのしみだな~
こうやって、ひとつひとつ自分を攻略する方法を探せることも贅沢だわァ