全員が「グローバル教育」を受けても社会は成り立つのか
今日は教育のお話です。
今の日本の公立学校は、「習った漢字は書いちゃダメ」とか「ハンコが必要」などの慣習が横行しています。その根拠を明かさない学校に、不満の声を持つ方、多いです。ウチも「これはまずいな」と思った口です。
しかし、ホントに国民全員が「自分の頭で考える」「先進的教育」を受けたら日本はどうなるのでしょうか。
ホントに日本の伝統的教育<インターナショナル・スクール的教育(随分ざっくりしてますが……ちょっと強引にまとめました)なのか?
どっちもあっていいのか?
全部インターみたいな教育になったら社会はどうなるのか?
長男とこの議論をしました。
議論の経過を、ちょっとご紹介します。
「我慢の練習」に意味はあるのか?
長男のいたインター。
ざっくり言えば、グローバルに対応するための振る舞いを学び、自分はどんな人なのかを知り、自己肯定感を高めるリーダーシップ教育をしています。英語や第二言語を教え、グローバルのマナーを教え、多様性を大事にすることを学びます。先生の意見や書籍の内容にも疑問を持てと、教科書すら疑うところもあります。
「疑問を持つこと」「質問すること」を奨励されます。知識自体を疑え、と学ぶ「考える人」を作る教育です。
一方で、日本の学校は割と逆で、「日本ローカル」に対応する訓練をします。
たくさんの理不尽なことに対する我慢をさせ、上下関係を叩き込みます。大量の知識を教えますが、言語は基本的に一つしか教えません。教養としての英語は教えるけれど、実践的な作文方法などはほぼ教えません。外国人は数少なく、発達障害の子供達は別にいて、年齢も揃えます。教科書は絶対で暗記させたりします。日本の小学校で私が感じたのは「自分の頭で考えるな」という強いメッセージでした。
つまり「考えずに従う人」を作る教育なんだなと。
どっちもあっていいのでは? と思う私
私の考えは「どっちもあっていいんじゃないの」です。なぜなら、社会にはどっちの役割も必要だから。
全員が全員、自分のやりたいことで社会を実現する!とユニークな方向に行ってしまうと、警察とか消防とか農家とかでは、うまくいかないのでは? と。
マレーシアでもコールセンターで働く人に話を聞くと、求められるのは「細かいルールを覚えてその通りに動く力」です。私の以前いた職場もそんな感じで上司のいうことは絶対でした。日本の伝統芸能などでは、「上下関係」を軸にした儒教的価値観そのものが文化だったりするようです。
時代にもよりますね。戦争なんて始まったら「自分の頭で考える人」は牢屋に入れられます。一方で、ベネズエラみたいな破綻しそうな国家からすぐに逃げるのもこういう人たちです。
お子さん見ても、向き・不向きがあります。親が良かれと思ってマレーシアに来ても「日本の学校の方がいい」と言って、戻ってしまう子もいるんですね。「周りと合わせていた方が楽です」って人も一定数いるのです。英語や多様性対応が必要じゃない人もまだいるのです。
教育は万能じゃない
それに、教育は万能じゃありません。
実際に日本の公立学校を出ていても、ブットんだ考え方をする人って一定数出てくる。教育や育ちってそんなに大事じゃないのかもしれません。
今メディアで過激な発言をしてる人も、公立学校出てたりしてるわけです。ホリエモンとかそうですよね。また、2ちゃんねるを作ったひろゆきさんは、「ゲーム禁止」の厳しい家庭で育ったようです。なのに裁判所からの命令を無視するような自由人ができてしまう。多分、子供って親が思った通りにも、学校が思った通りにも育たない。
いくら厳しく押さえつけても、その殻を破る人間というのは必ず出てくると。
マレーシアだってブラックな企業や意味わかんないことやってる会社、学校ありますから、「我慢の練習」もときには有効かなと。
「自分が何者か」に全員が向き合う必要がある
ところが長男は全く違う意見です。
「子供たち全員が、小さい頃に、自分が何者かということに向き合った方がいい」と言うのです。
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