あんたの名前はナルキッソス
Q.自分のことを愛しているだろうか?
A.人は誰しも自分のことを愛している。
そんな断言をうっかりしてしまうと、
”そんなことはない” だとか ”わたしは自分が嫌い”なんて否定を口にし、僕を批難する人も相応にいるだろう。
そうして彼等は自分の一挙一動に他人以上に注目をくれて、その度に些細な失点を見つけては、幸福の流出を招く吐息行為に甘んじる。
それを含めた上で、人は誰しも自分のことを愛しているなどと言えるのか──僕は言えると思う。
何故ならそうした自罰的な自意識もまた、ベクトルが異なるだけで、ナルシズムのひとつに過ぎないからだ。
好きの対義語は無関心なんて言うけども、
負の感情である”嫌い”という気持ちは、関心を持ち意識的に向け続けなければ持続しえないのである。
自分を覗き込むという行為そのものが、
自分への興味関心をなくしては成立しないのだ。
その理屈を体現するようなエッセイの折り返しを迎える上で、だから、まずはその話を語ろうと思う。
そのために改めて僕はこう問い直す。
あなたは自分のことを愛しているだろうか?
そして、それはどんな風に?
夏といえば催眠音声の季節である。
蛇口を勢いよく捻れば、怒涛の勢いで冷水が流れ出す。渇水に喘ぐ世紀末を舞台とした映画を見返したばかりだったので、気分はさながらイモータン・ジョーだ。
うちの家の浴室は光の加減が微妙なので、角度により薄暗がりになりがちのだが、それも相まってなんだか世紀末的なルックスだった。
浴槽に水が貯まるまでの間。
冷蔵庫から昨日補充したばかりの500mLのスプライトを二缶だけ取り出して、自作した台本の段取りを確認。
喉仏を右手の人差し指と中指で抑えて、あとえの間の言葉を繰り返し、それらしく振る舞う。
声優を志したことはないし、それに即した努力らしい努力を行ったこともないので、そんなのは見せかけに過ぎないのだがモチベーションの維持ってやっぱり重要だ。
それに今から僕は、この風呂場で身を冷水に浸しながら、盛大に喘ぎ散らかすので喉の調子は大事だった。
遡ること三年前の話である。
主にDLsiteで販売されている成人向け音声作品によって鼓膜の健康を育んでいた僕は、耐え難いマンネリズムに直面することと相成った。
明け透けに言えば抜けなくなったのである。
購入する作品の方に問題があるなら改善の余地があったが、しかしこの場合、問題があるのは僕の方だった。
音声作品と一言に言っても、
ジャンルは群雄割拠にして多種多様であり、性癖の桃源郷と声高に呼ばれるほどに性癖に関する漏れはない。
しかし、それを演じる声優の数には限りがある。
あえて嫌な言い方をすれば、お気に入りに慣れた時に代わりとなる声優は数あれど、それにも限度がある。
極度の飽き性の僕だから、数百も聞けば演技の傾向は読める上に、またその声質にも慣れてくる。
というわけで、これを良い機会と考えて地産地消に挑戦してみることにした。
地産地消。
それはつまり、自分の手で脚本を執筆して自分の声で喘ぎ声及び囁き声を収録して初めての成人向けバイノーラル音声作品を制作したということだ。
有り体に言えば日本語が可哀想な出来だった。
練習と対策を経て二作目を制作したが、しかしこれも上手くはいかない。ある程度はマシになっていたが、お世辞にも自慰行為に使えるような代物ではなかったのだ。
そうなれば持ち前の反骨精神に火が点く。
こういうことは僕の人生をして、よくあるのである。
大学時代。
上野駅周辺のブックカフェに足を運んだ時の話だ。
僕は北山猛邦の『瑠璃城』殺人事件を読んでいたのだが、周囲の客の様子を見れば、そのほとんどが洋書やビジネス書を手にしていた。いや、言い換えれば、それを至上とするような空気が店内に漫然と満ちていた。
その完成していて、完成しているからこそ排他的と感じる空気に、当時の僕はなんとなくムカついたのである。
だから僕は店を一度出て、その足でBOOK COMPASS エキュート上野店に駆け込み、表紙の肌色率が高いライトノベルを適当に購入。
本を手に店に戻った僕は、その中心の席で見せつけるようにその本を読むという文学テロリズムを決行した。
勝たせたくないと負けたくないは似て非なると言うが、しかしそんなのは僕にとって関係なかった。
とはいえ当時の僕は病んでいたので、世界や他人に屈服することに激しい抵抗感があり、それ故に反骨精神が剥き出しの行為が出力されたという運びである。
流石に今はもうそんなことやっていない。やらないし。
かように生まれついての負けず嫌い──とも少し違う気がするが、半端な出来のものが最終作というのはばつが悪くて、今年の夏もその音声作品の制作を決定した。
ちなみに去年は作らなかった。
だって面倒臭かったし、そもそもマンネリ自体は一作目制作後からしばらくして解消されていたので。
だから、
今はもうなんとなく作りたいから作っているの領分だ。
しかし上野。上野か。
なにかと縁のある場所である。
上京して初めてバイトをしたのもあの場所だったし、直近の話をすれば絶賛片思い中の女の子を誘うも諸々の理由から断られた夏祭りの開催地もあの場所で。
そしてあの場所には国立西洋美術館が存在する。
僕にとって、そこは因縁の場所だった。
生まれて初めての彼女と初めて訪れた美術館。
おいおい昔の女との惚気話かよ──となりそうだが、実の所そんなに楽しい話ではないし、エモーショナルに過去を振り返るにはその時に被った傷は大きすぎた。
だから聞くに困る甘いだけの惚気なんてするつもりはないので、そこは安心して欲しい。この場で語るからにはあの時の事を黒歴史だと思っていて、それが僕にとって悔い続ける過去であるからだ。
なんなら大した話ですらない。
だってこの話は、
ありふれた悲劇で終わるんだから。
僕が通っていた高校には
風変わらぬ普通の人々で満ち溢れていたが、しかしその中で目を引く、とびきりの変人が二人だけいた。
一人はその名に星の名を冠する男。
知性と度胸に溢れた立ち振る舞いが人並外れており、その存在感の強さは、周りから浮くというより周りを沈めていた。誰もが彼と一緒に傍にいるというだけで、自分の姿形に劣等感や焦燥感を覚えざるを得ないからだ。
そんな”出来た”人間であるのに、彼の優れた思考回路から弾き出される言動はいつだって奇天烈で、右斜め上のことしか言わない男として変人扱いを受けていた。
この数奇な友人を自分の人生から逃すのは損失だと思ったので、上京後はルームシェアをしようと彼の所属するクラスに昼食時に通って口説いたのだが断られた。
上京。
そもそも京都の大学の合格通知を蹴って、この男を追い掛けるべく進路を学期末に変更した末に東京に来たという来歴が僕にはあるのだが、それはまた別の話である。
そして、もう一人の変人が彼女だった。
顔はちゃんと覚えていない。
記憶に残したくなかったから。
写真も大半は残していない。
記録に残したくなかったから。
癖も声も髪型も趣味も──その全てがもはや曖昧だが、胸の大きさは覚えている。大きかった。我ながら最低な人間すぎて落ち込むが、人間は生来の性からは得てして逃れられないものなのである。
少し前に僕の好きな人にその彼女のバストサイズを話したことがあるのだが、それに対する返答は『それより多分大きい。勝ってる』だった。なんのマウントだよ。
ともあれ変人愛好家兼生粋の乳狂いの歴が長い僕の性質は高校時代も同様で、端的にいえば彼女に一目惚れに近い惚れ方をしたのである。
……この説明の仕方だと、まるで彼女の胸部だけに惹かれたみたいな印象になりかねないが。
そこに限らず外見や性格の好みはある。
僕の左目の眼下には涙黒子があるのだが、彼女にも同じ位置に涙黒子があって、たとえばそこがなんだか艶やかだと思った。
それになにより、
変な人だったからこそ僕は彼女を好きになったのだ。
たとえば彼女は。
高校最初のクラスにおける自己紹介の時に、自分で描いた抽象画を出して真の芸術家を高々と名乗ったにも関わらず、なぜか数日後にはバレー部に入部していた。
この意味不明な感じ。
本当にイカしている。
入学式から三、四週間後だったと思う。
昼食の時間に隣の隣のクラスまで足を運び、
告白を前提に友達になりましょうと彼女に宣言しに行くことにした。
挨拶は大事だ。
そして、それはよくある自己紹介のようなもので。
自分が何で出来ていて、何によって今に至るのか。
それを伝えた上で好意があることを示そうと思った。
言うまでもなく初対面だったが、何事にも一歩目というものがある。ライト兄弟だって、飛行機が飛び交う未来を知らずとも空を飛んだのだ。
だから僕も踏み出してみよう。
「あ、移動授業の度に手挙げて目立とうとしてる人だ」
なんて、にやにや笑いながら件の彼女は僕を迎えた。
どちらかと言えば不本意な覚えられ方である。
███さん──目立つ同級生ということもあり名前は知っていたが、距離感がよく分からなかったので、苗字にさん付けで呼ぶことにした。
対する彼女は僕の名前を知らなかったらしく、傍のバレー部の女子と少し話して、改めて僕の方に向き直った。
「都部? 変な苗字。で、なにしにきたの?」
君に告白しにきた……というわけではないしな。
なんだ。なんなんだろうなこれ。
ひとまず僕は経緯を説明することにした。
いきなり他のクラスにやってきて告白しに来た男として冷やかされるのでは……と、後になって気付く。しかし入学から一ヶ月弱ではクラス内の壁も融和しているとは言い難かったようで、僕の挙動はせいぜい遠巻きから一瞥される程度だったと記憶している。
昼食の時間を邪魔するのも忍びなかったので、
十分ほどで説明を終えるつもりだったが、半分ほど話した辺りで彼女は横槍を入れてきた。
「──要するに。私のこと彼女にしたいんでしょ? 回りくどいこと言ってないで、今、告白しなよ」
何言ってんだこの女、と僕はひどく困惑した。
そんな非常識なことをするわけないだろうが。
そんなのナンパと変わらないし、軽薄な付き合いも交際もするつもりはなかった。僕は不器用な人間だから、そうした柔軟な流れに沿うことには抵抗があったのだ。
しかし、これは言い訳である。
順序を立てて、段取りを講じて、準備が出来たら事に臨もうなんて、そんなの大抵の場合は上手くいかない。
人生とは常に準備不足の即興劇だ。
一発勝負とアドリブで乗り切るしかない場面の方が多く、またアドリブこそが真の台詞になり得る時もある。
それに竹を割ったような性格は嫌いじゃない。
「君が好きだ。良かったら付き合おう」
「そ、私は良くないから、あんたとは付き合わない」
よし、振られたな。
僕はそそくさと席を立って帰ることにした。
無理に食い下がるのは美徳ではないと思ったし、ファーストコンタクトとしては妥当な結果だろう。高校生活はそれなりに長い。縁が合えば彼女と生活が交わるような機会もまたある。まあ、その時にそういう気持ちがまだあるのならば、その時に告白すればいいさ。
なんて。
今だからこそ冷静な事後処理を執り行う内面を描写できるが、当時の僕は極々シンプルに傷ついていた。
辛いとか悲しいとかそういう感情は二番手三番手で、どういう形であれ、人からの拒絶というのはとても痛い。
この痛みから逃れるべく、
今すぐに僕はその場所から離れたかった。
「今度はもっと告白の言葉考えてきなよ」
……今度?
今度ってなんだ?
「え? 一回断られたくらいで諦めるんだ?」
彼女は卑しい視線を僕に向けながら半笑った。
僕は──その視線の意味を知っている。
彼女は”根性無し”として、僕を見定め、舐めたのだ。
軽んじられること。
放っておかれること。
そしてなにより舐められることが僕は嫌いだ。
だってそんなの、ムカつくから。
つまりだ。
つまり、僕の反骨精神に火が点いた。
僕はMACの液晶画面に映る射精音の素材フォルダを弄りながら、その作業を淡々と進めていた。
クイズ。
成人音声作品において最も重要とすべき要素とはなんだろうか。シンキングタイムはない。答えはイラストだ。
大抵の場合は優れたクオリティのイラストが販売数の伸びにそのまま直結し、その中でも、なんとなく売れる絵柄や売れる絵師というものも存在している。
でも音声が主体の作品市場なのでは?
と、疑問に思うだろうが、よくよく考えてみてほしい。
その演技や脚本に対して興奮することこそあるにせよ、あくまで情欲の対象は偶像であって、そのビジュアルの存在は無視できないだろう。
その一枚──とは差分もあるので限らないが──のイラストを没入や妄想の起点にするわけで、音声作品だからこそ それは重要視される要素なのである。
もはやそれは作品の顔と言ってもいいだろう。
さて、当然ながら眼前でSEの取捨選択の下に着々と制作されていく僕の音声作品にはイラストが存在しない。
だって個人用だし、僕しか聞かないし、今後DLsiteに進出するならCVはその筋のプロの声優を雇う。
あくまで趣味の領分なのだから──とはいえ、創作において手を抜くのも抵抗感があり、拘れる部分は拘る。
たとえばSEとか。
だから僕はそうした経緯で、複数の射精音のSEから理想のSEを選ぶべく、繰り返し繰り返しそれを聞いていた。
素材の数は多い。
しかし一つがダメでも、その代わりはある。
代わりの数だけ感性の試行錯誤を繰り返すわけだが……。
背もたれの壊れたアンバランスな椅子に座り、左右に揺れては、もどかしい進捗を牛歩させていく。
僕はいったい何をしているんだ。憂鬱な気分に晒されるが、しかしそれでも自分の納得の為には必要な過程だ。
だから繰り返す。
何度でも、繰り返す。
その結果がいかに悲劇的であろうとも。
彼女の正体は痛々しいロマンチストだった。
僕は黄金週間に準備を整えた後、再度その告白を決行することにした。
世の中の高校生は、恋愛や交際をする為にこんなステップを踏んでるのか……や、そんなわけない。なんで僕は告白の二度漬けに勤しんでいるんだと甚だ疑問だった。
しかし彼女は”変わっていた”。
中学時代は手酷い恋愛に興じていたと聞いていたので、その変遷を考えれば交際までの過程が多少は歪むのも無理もない話ではないんだろうと納得する事にした。
なに。これも惚れた弱み。文句は言うまい。
それなりの手順を踏んだ上で次に臨むのだ。
返答はどうあれ、無下に扱われることはないだろう。
告白の仕方が地味とダメ出しをされて、それから更に二回のリテイクを食らった。ふざけんな。事前にこの日はこういう告白をしてくれと言われたので、彼女なりにOKを下すための譲歩と考えて、準備を整えて決行したこともある。なんか違うと言われて断られた。ふざけんな。
時に、僕は過去にこんな小説を書いたことがある。
京都を舞台として。
百点満点の完璧な告白を待ち望み自分への告白に毒舌混じりの採点を下すイカれた女とその女と付き合うため百点の告白を叩き出すべく六万文字に渡る作中で71回の告白を繰り返す男のラブコメディ──そういう小説だ。
その作品は、僕のかような実体験に由来している。
とはいえ実体験の方は、流石に71回も告白してない。
僕の場合は6回の告白で済んだからだ。
季節は六月に差し掛かろうとしていて、梅雨の訪れを感じる空気の変化と共に変化なき現状の恋愛模様を、僕はたいへん鬱屈とした心情で迎えていた。
いや、これもう無理だろ。
彼女にまだ交際相手が出来ていないことは把握していたが、僕が置かれている状況はきっとそういう問題ではない。綺麗に身を引くのも手と考えたが、しかし、そのくせ彼女は僕の告白に対して改善の為のアドバイスを細かく下してくるというのが意味不明だった。
本当にどういうつもりなんだよ。
真意を明かせ。
それまでの僕の人生で遭遇した奇人変人の中でも、余裕で上位に食い込む器の持ち主であることには喜びがあったが、それはそれとして行き場なき感情が募っていた。
もしかして遊ばれているのか……?
とも考えたが、彼女は僕のその空回る言動を笑うようなことは決してなく、むしろこれ以上なく真剣味を帯びた態度で適切に評価する。少なくとも”その時期は”、彼女はそんな誠実な芯のある人間だった。
5回目の告白。
変化球は3回目と4回目で投げていたので、原点に立ち返るつもりで正面から好意を伝えてみることにした。
誰よりも早く学校に訪れて彼女の在籍するクラスに這入る。チョークを手に取り、黒板に貴方に告白したいのでこの場所に来てくださいという旨の内容を書き込んだ。冷やかされる中、考えてきた言葉と共に告白。愛情を感じる字の大きさじゃないと怒られた。ふざけんな。
思えば、この時のダメ出しは特に執拗だった。
黒板に書いたとはいえ、これがラブレターならば自分の名前もまた末尾に書けと。名前を刻むということは責任の表明なのだと。それがあんたが大好きな私に払うべき礼儀であって、相手を愛するなら誠実さを忘れるなと。
いちいち細かい女だな……と思わなくもなかったが、正論ではあったので、否定の余地がなかった。
「じゃあ、聞くけどさ。君はどういう告白がいいわけ?」
想像力に乏しい僕だから、告白の手段も先細る一方だったので、思い切って最適解を聞いてみることにした。
僕のその質問に対して、彼女は訥々と理想の告白を語ったが、当時の記憶を元に意訳するとこんな感じである。
「人に好きと伝える時は、大胆不敵に、派手派手しく、だけど口にするまでは誰にもその本当の狙いを悟られない。そしてその真意が、私にだけ伝わるような方法を考えて。自分を射止める為だけに用意された特別で愉快でこれまでの人生に前例のない告白がまあ理想かな」
無茶を言うな。
なんでお前のそんな変な理想の求愛に僕が付き合わないといけないんだよ。そう思ったが、初めてちゃんと好きになれた人だったので僕もちゃんとすることにした。
どうせこれが最初で最後の恋ということもあるまいが、目の前の自分の感情に必死になれないのは嫌だったし、好きになった相手に対して不誠実は働きたくなかった。
だから僕は考える。
彼女がお気に召す──自分を射止める為だけに用意された特別で愉快でこれまでの人生に前例のない告白を。
考えて、考えて、その答えを得たのは数日後だった。
6回目の告白。
忘れもしない2015年6月15日月曜日──放課後。
僕は駐輪場に駐車されていた彼女の自転車を、傷が付かないよう丁寧に蹴り倒して、仁王立ちで彼女をその場で待つことにした。
順に説明していこう。
まず駐輪場にある彼女の自転車だけを倒したのは、僕は貴女だけを好いているという意の表明だ。自転車が無数にある空間の中、彼女の自転車だけを選んで他とは違う状態にする。他にない唯一無二の形にするのだ。その為に駐輪場で事前に倒れていた自転車を起こしたりした。
そして彼女はこれまでの告白の反応を見るに、
彼女は英語での告白を好む傾向にあった。
だからスケッチブックから切り取った一枚の紙に
If there are days when you can't say you love yourself, then I'll be there to say I love you in your place. とマッキーで書き込んで、その紙を正面から見えるように自転車の籠に貼り付けた。
あまりにも入り込みすぎていて、もはやその真意の三割すら伝わるかどうか怪しいような変な告白だった。だったが、しかし彼女ならば、その意図を察するだろうという謎の確信があった。
いいや、正確にいえば確固たる信頼があったのだ。
当然ながら好奇の視線を買うことになる。
傍から見ると意味不明な光景だし、意味不明な人間である。友人から帰宅を誘われたりもしたが、
「今 告白中だから放っておいてくれ」
と、断った。
それからしばらくして、部活動を終えた彼女が僕の方へとやってくる。その頃には陽もいい具合に落ちていた。
「あはははははははっ!!!!!」
大爆笑だった。
僕の姿を視界に捉えて、一瞬だけ呆気に取られたような顔を見せた後、くず折れるようにして彼女は笑い出す。
どちらかと言えば、発展途上の美人面にお似合いの澄ました顔がベーシックな彼女だったから、そんな風に腹の底から声を上げるように笑う姿を見たのは初めてのことで、かなりびっくりしたのを覚えている。
「……えっ!? あぁ、ははっ……、あぁ、そういうことなの!? え? いつからそうやって私のこと待ってたの?」
「授業が終わってからちょっとして……四時半過ぎからだから、大体80分くらいかな」
「ははははははは!!」
何を喋っても、何を説明しても、爆笑で返ってくるという稀有な状態に彼女は突入していたので少し待つことにした。ある程度収まったかと思えば、籠に貼られた英文を目にして、また彼女は笑い出す。もはや涙すら浮かべ泣き笑いみたいになっていたので、このまま彼女は笑い死ぬんじゃないかとすら思った。
「────あー、本当に笑えるんだけど。あれだよね。ずっと思ってたけど、都部ってめっちゃ馬鹿だね」
散々と笑い尽くして、この告白の結論を纏めるように彼女はそんなことを言った。
恋は盲目だ。
だからこそ人は恋愛を前にすると視野狭窄に陥るが、この場合、こんな極端な方法を考えて実行することになったのは彼女の責任でもあるのでその評価は不服だった。
「どうせ倒すなら、私の自転車以外を全部倒すくらいやってほしかったけどね」
そして流れるようにダメ出しが入った。
ふざけんな。常識的に考えて、そんなことをすれば僕が怒られるし、両親が共に教師であるからというのもあって これでも遵法意識は人並み以上に強い方なのである。
「とりあえず。自転車、元に戻して」
「あ、はい」
言われるがままに彼女の自転車を起こして、
拾い上げたヘルメットを彼女に手渡した。
「それも着けて」
向き合う形で、僕は彼女の頭にヘルメットを着けることになった。僕は電車通学だったから……は、あんまり関係ないか。他人にヘルメットを着けるのに不慣れだったし、それが好きな人となれば嫌に緊張してしまって、だからちょっと手間取った。そんな不器用な僕を、彼女は笑いながら一言二言とからかったのをよく覚えている。
「ありがと。よし、付き合おっか。あともう帰ろ」
信じられないくらい軽い調子の一言だった。
それを聞き逃さなかったのは奇跡に等しくて、しかし理解の方は追い付かなかった。嬉しい。やったね。ようやく報われた。そういう気持ちよりも困惑が勝った。
カラカラと音を立てながら自転車を引いて、何食わぬ顔で校門の方へ歩いていく彼女。何かを言うべきだと思ったが、何を言うべきか分からず、最終的に半歩後ろを歩くような形で僕は彼女の後に着いていくことにした。
彼女と違って僕は電車通学だったけど、その日だけは彼女と駄弁りながら、徒歩で帰路に着いた。
思えば僕らはそれまで互いの前では片意地を張っていて、だからよくあるような、高校生らしいありふれた意味のない会話をするのはその時が初めてだった。
その時、もしかして彼女は僕が思ってるほど変わった人じゃないのかもしれないと思った。
でも、そんなのどうでもよかった。
どうでもいいって、そんな風に前向きに思えた。
「絵が好きなのに美術部じゃないのはなんで?「入ってる奴らと話が合わないから。バレー部に入ったのはノリ「駅前のサブウェイあれぜってぇ潰れるよ「笑える。需要ないもんね。卒業まで残ってるかな「私染めないしドクペは嫌いだから飲まない「頼むよ。ドクターペッパー飲んでる茶髪の女子に萌えるんだよ「富士山の標高が2430mじゃないの嘘すぎるよね「そりゃ人工物じゃないからな「このLINEのダサい一文はなんなの「えっ、格好よくない?「今ヘンなこと言ったかも。忘れて「大丈夫。忘れる「私もさあんたの馬鹿なとこはすぐ忘れるから「君との会話なんて薄情な僕はきっとすぐ忘れるよ「私のこと情緒不安定なクソ女だとちょっと思ってるでしょ「まあ僕も似たようなもんだし「あんたって私以外に好きな人出来たことないの?「ない。いや、好きかもとかはあったかな「ウチの吹奏楽部ってなんであんな偉そうなの「人数が多いからじゃない?生態が虫と一緒だよ「田舎の特急って各駅停車と変わんなくてキレる「君ずっとキレてるじゃん「男子に産まれてたら奏汰って名前だったらしくて「なんか爽やかすぎて似合わないね「お、それ米津?なにすき?「リビングデッド・ユース
倉橋は大学時代の友人である。
ごくごく普通の友人で、変人と称するような特徴がなく、特徴らしい特徴といえば出身が関西なので普段から訛りのある方言で喋ることくらいだ。
平たく言えば音声関係の仕事をしていて、それなりに順調らしく、友人としてはその好調は嬉しい限りである。
「このUSBに僕の猫撫で声や喘ぎ声が140分近く収録されてるんだけど、これを頑張ってボイスチェンジしつつ上手く編集してほしい」
「なんて?」
「僕なんて色々あって、好きな相手の交際相手の喘ぎ声を2時間以上も聞くことになったんだぞ。それに比べたら些事だろ。何日までに……とかはないから、まあ、時間がある時によろしくね」
「なんで?」
報酬用の現金が入った封筒。
あとPayPayがちょっと残ってたので、それも送った。
およそ二ヶ月振りに顔を合わせたので、この機会に一緒にご飯を食べることも考えたが、その日は仕事や制作の疲れがあって断念した。まあ会おうと思えば会えるし。
帰り道に代田橋駅で途中下車。
主に文房具を扱うクラウン堂に立ち寄って、エッセイの最終回に必要な”それ”を購入し、そのまま速やかに家に帰ることにした。
音楽を聴きながら、駅のホームで各駅停車の駅を待つべく階段を上がれば、側面の壁には秋より始まる画展の宣伝広告が何枚か貼られていた。
でもその広告はとても古びていたから。
実は単に剥がすのを忘れ去られただけの産物で、本当はそれらの画展はとっくに終わっていたのかもしれない。
都心でそういう宣伝広告を目にすると、なんだか悲しくなる。もっと言えば無性に泣きたくなる。
与えられた役割を終えて、人知れず色褪せていく。
そんな姿を見ると、お前は酷く薄情な人間だと言われているような気持ちになる。
居ない振りをして。
見ない振りをして。
僕はそんな宣伝広告を見送って、電車に乗り、何事もなく その場を去るのだ。剥がそうと思えば、それを剥せるはずなのに。残酷な終焉の姿にひと時の感傷を抱いて。
そんなのは間違いだって、僕は分かってるはずなのに。
電車が来た。僕はそれに乗り込んで、曖昧な気持ちを誤魔化す為に、次の曲を選んで再生する。
窓の外から、
朽ち果てた広告が僕のことを恨めしそうに見ていた。
その絵画の現物を初めて目にしたのは、
2016年の初夏のことだった。
誰もが知る著名な画家:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオが描いた『ナルキッソス』である。
経緯を説明しよう。
5月末、彼女が上野の国立西洋美術館で開催されているカラヴァッジォ展に行きたかったと言い出した。
なぜ過去形なのかを聞くと、その次の月 つまり6月の12日まで──ここはかなりうろ覚えだったのでこのエッセイを書く時に調べた──しか目当ての画展は開催されていないらしく、春休みに行く予定が流れてしまったので……とのことだった。
「でもまだ2週間あるんだし、行けば良くない?」
というわけで行くことになった。
なぜか僕も同伴で。
いや、交際相手なのだから考えようによっては当たり前ではあるのだが。行くとこ行くとこ二人で みたいな依存性のある交際は、遅かれ早かれ致命的に破綻すると互いに分かってると踏んでいたので少し意外だった。
とはいえ僕も絵画は嫌いではなかったし、彼女の駄弁りに付き合ってる内にそれなりの知見は得ている。
東京という都市に特別な憧れはなかったが、彼女と足を運ぶなら何処へでもお易い御用だった。
バカな彼氏である。
当日の早朝。
御殿場インターにある硝子張りの待合室のベンチに座って、彼女とバスを待っていたら、正面にある小型の駐車場に送迎の為の車が停る。流石に車種は覚えていない。
派手なサングラスに派手なアロハシャツに派手なダメージジーズンを着た女が降りて、こっちに歩いて来たので、なんだか怖いなぁとか思ってたら僕の彼女だった。
浮かれすぎだ。
沖縄にでも行く気か。
どんだけ楽しみなんだよと言ったら、うるさい、とマジの時のトーンで怒られた。
「██。実はキュウリ苦手なんだけど、この部分だけ食べてくれない?」
「殺すぞ」
東京への日帰り旅行を、
たった今始めたばかりのカップルの会話とは思えない。
これは告白後の一年で彼女の暴虐無人さに磨きがかかったわけではなく、オフの時の朝は大体こんな感じだった。最後まで全然慣れなかった。だって怖いじゃん。
しかし振り返ると、朝食の為のサンドイッチを二人分作ってきたのに連れ合いがキュウリが苦手とかごちゃごちゃ言い出したからそれで怒ってた可能性も大いにある。
今なら絶対にそんなことは言わないし、苦手な物も出されたからには食べるが、当時は高校二年生でそういう配慮の出来ない人間だった。どう繕っても言い訳だけど。
数時間後。東京へ到着して、そのまま上野に向かった。
その時の細かい会話とか思い出したらキリがないので省略するが、アポロチョコの都市伝説とかウォーターベッドの感触とか好みの異性の足のサイズとかの話をした。
「足の大きさが27.5cmの男に興奮する。ぐりぐり〜って腰をね。攻めるように優しく踏まれたい」
僕は27cmぴったりだったので、仮想の男に嫉妬した。
午前10時過ぎくらいに国立西洋美術館に入館。
見るからにテンションがぶち上がってる彼女を尻目に、僕は相応のテンションで画展を巡ることにした。
その折、なんとなく目を引いたのがミケランジェロの『ナルキッソス』だった。
絵の前でわざわざ立ち止まり、そのまま数分は眺めていたと思う。どうしてかと問われると答えるに難しい。かれこれもう8年も前も話だし、その時に覚えた感覚的な情動を適切に言語化するのは容易ではないからだ。
だから──ただ、目を惹かれた。
というのがこの場合は”正しい”に最も近いのだろう。
画展を二時間ほどで見終えた僕らは、すぐ傍の上野公園で休んでいくことに。せっかく東京に来たのだから、そこでしか食べれない物を食べる案もあった。
しかし夏休みを迎える前の僕らはアルバイトをしておらず、びっくりするくらいに金欠だったのである。
思えば彼女は僕と同様に金欠の癖に見た目だけセレブリティ気取りなのが面白かったが、1サイズ大きいアロハは身体の凹凸を隠せるため実は重宝すると語る。
着ているアロハの透過度の高い色合いを考えると、汗で吸い付いたら下着とか透けかねないのでは……と危惧したが、彼女は僕なんかよりよほど賢いのにたまに大馬鹿なところがあったからその辺 気付いてなさそうだった。
僕らは話し合った末に、650円と割高のバニラ味のソフトクリームを半分こすることにした。
ソフトクリームを半分……?
と首を傾げていたら、
彼女はそのウザったいくらい長い黒髪を掻き上げて、コーンの嵩の部分までクリームを一口で食み切り。
そのまま、んっ、とこちらへ残りを手渡してきた。
その時に僕の彼女はなんて最高の女性なんだと、ひどく感動したのを覚えている。そんな風に僕の意表を突く事に欠けて右に出るものは彼女以外に当時はいなかった。
なんなら今すぐにでも市役所に駆け込んで婚姻届を出したい気分ですらあった。なんならその場で打診した。
輝かしい指輪も華々しい結婚式も、そんなのなくても人は結婚出来るのだから。
まあ普通に断られたけど。
当たり前である。
というか前提として婚姻年齢を満たしていない。
あまりにも、あんまりな、バカップルメンタルだった。
そんな遣り取りを交わしながら、僕はつい先ほど目にしたナルキッソスの話を持ち掛けた。なんだか妙に印象的で、それを目にして複雑な情動に襲われたこと。
それを言葉にするのは難しかったが、彼女に伝わればいいなと思ったので、自分なりに手探りで説明してみた。
「ナルシストの語源になったアレね。私は京樹が言うほどでもなかった。あとナルシストは嫌い」
「それで、よく……」
僕の恋人なんてやれてるな、という言葉を言い淀んだ。
初めて出来た彼女だったということもあり、
一年を経ても、自分の好意を表に出すのが今更のように恥ずかしかったのである。
恋愛感情を表面化させるというのはそれなりに勇気がいることで、淡白であれば常識の範囲内に収まるが、自分の言葉で褒めちぎるともなると多くの不安が去来する。
受け入れてもらえるかどうか。
他者の視座から映る自分の姿を、誰より気にする僕にとって、それは越えるに苦労する壁だからだ。
……まあ、僕が言いかけたことを彼女は察したらしく、あんまり言い淀んだ意味はなかったのだが。
「それはそれ、これはこれ。いやさ、たしかに私も絵画は好きだよ。好きだけどさ。一枚見ただけで、よくそんな落ち込んだり喜んだり出来るよね」
「まあ、絵画に限らず芸術ってそういうもんでしょ」
「羨ましい。……いや、ごめん、嘘言った。今の違う」
ハンドバッグから取り出したハンカチで口元を拭いながら、彼女はそんな風に自分の発言を即撤回した。
なんだか珍しく言葉に困っているようだったので、僕も素知らぬ顔で気を利かせて助け舟を出すことに。
「言いたいことがあるなら言えば? 」
「ちょっと死んで欲しい」
「なんでそんな酷いこと言うの……?」
流石に面食らう。
甘マゾ野郎な僕としては、好いている相手からの軽い罵倒や揶揄いなら許容の範囲内だが、流石に死を希われるのは範囲外だった。普通に悲しい。泣きそうだった。
「超ムカつくんだけど。どうせ。どうせねぇ! 私は感性に乏しいですよ!」
彼女のコンプレックスを謎に刺激してしまったらしい。
仮に感性に乏しかろうが、
僕が好きな感性は彼女の持つ感性なのに、なんだか意味の分からないことを言うなぁと思った。
「ナルシストなのに自分のことが嫌いな癖に……どっちかはっきりしなよ。あれだ。京樹って半端だよね」
半端。
なかなかに刺さる一言だ。
そして彼女は妙に芝居ががった調子で、こんな言葉を続けた。例によってこれはまたエッセイ用の意訳である。
「あんたの名前はナルキッソス。自分のことが好きで好きで好きで仕方ない、自己愛を拗らせてるロマンチスト」
「……それは、そんなにも自分を大好きな奴が私に対してだけはめちゃくちゃ大きい愛を捧げてるんですがねって感じの惚気?」
「そういう細かいところを全部言っちゃうの、本当、マジそんなんだからモテないんだと思うよ」
僕らは上野を後にして、半日ほど東京観光をしてから御殿場市へと舞い戻った。
さて、それから約二ヶ月後の話だ。
そのありふれた決裂は起きて、彼女との交際関係は完全な没交渉を迎えた。破局したのだ。破綻したのだ。何もかも駄目になったし、何もかも滅茶苦茶に成り果てた。
特別な人は、よくいる、ありふれた他人になった。
その原因は彼女による一種の不貞行為だった。
彼女には僕と同時に交際している相手がいて、その事実を相手には明かし、しかし僕には巧妙に隠していた。
だから客観的な立場を鑑みれば、
浮気されたのは”彼”であって、僕という人間は不正解の象徴のような不貞に関与した第三者に過ぎなかった。
その薄汚れた人間宣言に、僕がまるで怒らなかったといえば嘘になる。傷つかなかったといえば偽りになる。
しかし彼女の気持ちが彼に向いているのならば、僕なんぞに怒る資格はなくて、出来ることといえば彼女の決断にただ従うということだった。
だってそうすれば彼女の傷は最低限で済むだろう。
それなら良かったのに。
何も良くないけど、それで済むならマシだったのに。
優しさとは名ばかりの僕の判断はしかし間違っていた。
なぜならば更にその一ヶ月後。
彼の一方的な都合によって、彼女は裏切られたからだ。
あっさり捨てられた。
本当にあっさり捨てられた。
乗り換えられたと言うべきか。
僕が特別だと思っていた人は、彼にとって特別ではなく、代わりのいる ありふれた存在でしかなかったのだ。
身体で繋ぎ止めようとしたらしい。
趣味で関係を補おうとしたらしい。
時間を共有し距離を詰めたらしい。
それでも駄目だった。
理解した気になっていた。
理解し合った気になっていた。
しかし根本的な部分で覆し難いズレがあった。
どの面下げて。
僕は彼の元に足を運んで、そうなった経緯を聞いたけれど、返ってきたのは醜悪極まりない答えで。
だから僕もまた深い傷を負うことになった。
それより長らく継続することになる女性不信と人間不信を被ることになり、およそ半年間、心因性の勃起不全に悩まされることになった。そして彼との対面から三週間に渡って、僕は外に出られなくなった。
Q.僕はどうするべきだったろうか。
A.そんなの分からない。
蒼と白が混ざり合う富士の山が見える部屋の窓を、ベッドの上から意味もなく眺めて。言い訳のように用意された少し錆びたカッターナイフはその役割を果たさない。
他人を傷付ける覚悟もなく、
自分を傷付ける潔気もなく、
それは自分の抱えた愛情に中途半端で、僕がその責任を果たせない薄情な人間であることを意味していて。
自分の情けなさに嫌気が差した。
胎児の真似事のように蹲って、自分の頭を何度も何度も何度も叩いた。いっそ狂ってしまえばよかった。
他人のことなんて何とも思ってない癖に。
一丁前に傷付いた振りなんかするな。
薄情な人間の癖に。心の冷たい人間の癖に。
暖かいだけの涙なんか流れるな。
それでも僕は理性を手放せなくて、無駄な良心が自棄を許さなくて、ごくごくありふれた後悔に心を沈ませることしか出来なかった。
自殺できる人間は強い。
まったくもってその通りだと思った。
この話に逆転はない。
僕は立ち直れず、彼女も立ち直れず、関係は戻らず、忘れたように振舞ったけれど忘れることは出来なかった。
今でもたまに夢に見る。
刻まれたトラウマは癒されず、時間は何も解決してくれない。未だに痛みを訴える傷と見るに堪えない結果と自嘲する他ない黒歴史だけが僕の手元には残った。
それでも思い出すことがあるとすれば。
あの日、ナルキッソスの話をした時のこと。
僕と彼女で絵の解釈が綺麗に割れたのである。
Q.この絵に映る青年はなぜ死ぬまで、その場を離れず、水面に映る自分を見つめ続けたのでしょうか?
「目を逸らしたら彼が消えてしまうと思ったから。自分が相手を見るように、相手も自分を見ている。それはお互いにとってお互いが唯一無二だと思えるような、そんな状態だった。でもナルキッソスはそれでも安心出来なくて、彼の目の前にいることを選んだ。目の前から離れることを拒んだ。そうすれば相手を独り占め出来ると思った。人はそういう気持ちを自惚れって言うんでしょ」
なるほど。
それは、彼女の人生観が伺える面白い解釈だった。
でも僕はそうは思わなかった。
「彼はきっと暗い水の中に沈む愛しい人をただ助けたかっただけなんじゃないかな。その顔は自分が相手を心配するように、とても憂いを帯びていたから。晴れない悲しみを称えていから。だから手を伸ばした。だから抱き締めようとした。ただもう大丈夫だと言うために。それでも。それでもどうにも出来なくて。もしその愛しい人が溺れて死ぬならば、せめてその姿を最後の最後まで看取る為にそこを離れなかったんじゃないかな」
しかし僕もナルキッソスも分かっていなかったのだ。
仮に溺れずとも、溺れている人が目の前にいようとも、自分もまた当たり前のように死ぬということを。
それに気付かなかったことこそが自惚れなのだ。
帰宅した。
左腕に巻いた腕時計で時刻を確認すると──確認できなかった。
前までは小さかった文字盤の亀裂がなにかの弾みで大きくなったらしく、今ではかろうじて短針と長針のその姿が見える程度だ。諦めてスマートフォンを取り出して確認すれば、ちょうど19時を過ぎた辺りだった。
そういえば片思い中の例の彼女に聞いておきたいことがあったなとか考えるも、今日は彼と顔を合わせる用があると知っていたので日を改めた方が良いだろうと判断する。
片思いに身を置いてる立場としては、
そういう形で水を差したくない。
アニメ関係のキーホルダーが付けられた鍵を使って、部屋に這入ると、彼女ちゃんが仁王立ちで待っていた。
本日の髪型は綺麗に切り揃えた姫カットである。
彼女の場合は生え揃えたが正しいのだろうか?
「他人の女がそんなに大事?」
あ、これ、このまま小言を言われるなと察した。
毎度の事なので、毎度の様に凹むだけだが、仕事と製作で疲れていたので今日は上手く躱すことを心に決める。
彼女は、
僕の良心のメタファーを名乗る僕の幻覚である。
僕が用を終えて帰宅しても、大抵は労いの言葉もなく、機嫌が良い時にだけおかえりを言う。そんな存在だ。
ちなみに彼女が外出から帰ってきた時におかえりを言わないとそれはそれは怒られる。挨拶は大事、大事なのは挨拶と執拗に念押す。そもそも何処に行ってんだよ。
名前も渾名もNO THANK YOUらしいが、不便なので、彼女(かのめ)ちゃんと僕は勝手に呼んでいる。
「大事だよ。慕ってる相手である前に、友人でもあるしね。他人に誠意を尽くせと親に言われて育ったタイプなんだ。だからまあ、そういうのは今度聞くよ」
その日も暑く。
発汗もそれなりで、夜とはいえ蒸し暑さが部屋に充満していたから、僕は彼女を素通りしてクーラーを付けた。
「よくある言葉だけど、女なんて星の数ほどいるでしょ。その一人に過ぎない人間がそんなに特別?」
それは、聞き捨てならなかった。
「今の言葉を撤回して、そして訂正しろ。彼女を侮辱するな」
「侮辱? いやいや、今のはただの事実でしょ」
あくまで彼女は冷ややかな調子で、僕の肩に手を置いて、その怒りは馬鹿馬鹿しいと嘲笑する。
「たしかに女性は一人じゃない、でも彼女という存在は一人しかいないだろうが」
「あー、はいはい。そうね。それはそう。それに間違いはない。合ってる合ってる。たしかに彼女と同じ名前で、同じ姿形で、同じ性格で、同じ声帯で、同じ感性で──なんて人間はいないわよね。でもその代わりになる誰かがいないなんて、そんなの誰にも言えないでしょ」
それはたとえば音声作品のSEのように。
それはたとえば音声作品の声優のように。
究極的に代替となる存在がない、なんてことはない。
「自分が矛盾してるって思わないの? 昔 好きになった人は特別で、昔好きな人に向けていた感情は無二で、昔そこにあった関係は掛け替えなくて──本当にそうなら、別の女を今 好きになってることはないはずでしょ」
「それは、だって…………人間ってそういうものだろ」
「”そういうもの”って、なに? 適当な言葉で相槌を打って会話した気にならないでくれないかしら」
彼女は覗き込むようにして、
僕の視線と自分の視線を交差させる。
そこに逃れる場所はない。
そこから逃れてはいけない。
そんな強迫観念が、僕の身体を自ずと硬直させる。
「彼女と彼女は違う。僕は代わりになんかしてない。過去の失敗を拭う為に彼女に拘ってるわけじゃない。二人は同じじゃないんだ。それに前に失敗したのは、彼女の駄目な所をうまく受け入れられなかったからで──」
「あのさぁ。欠点を愛するとか駄目な所を受け入れるだなんて、いつからアンタはそんな大層な人間になったわけ? いいよ。構わない。百歩譲ってその心意気が高校生のアンタにあったとしてあげる──なら、どうして許してあげなかったの? 彼女に慰めの言葉を送らなかったの。それは全てを受け入れる気なんて最初からなかったからでしょ。誰でもないアンタが傷付くのが怖いから」
「……怖くて、悪いのかよ。どうすればいいのか分かんなかったんだから仕方ないだろ」
「どうすればいいのか分からなかった? 笑わせる。そんなの、彼女を殴りに行けば良かったのよ」
「暴力を働くなんてモラルに欠くこと……」
「話を逸らすな」
冷たい一言だった。
冷たく、薄情で、甘えを突き放すような一言。
「私が、”そういう話”をしてるんじゃないってアンタは分かるでしょ」
「…………」
「僕の気持ちはどうすればいいんだ、ってさ。彼女と感情で殴り合えば良かった。でもそれをしなかったのは怖かったからでしょ。相手が自分に隠していた感情や事情を知ることが。だから納得することにした。相手の理屈に合わせて、その理屈の穴に見て見ぬ振りをした」
理解した気になっていた。
理解し合った気になっていた。
いいや、それらは間違っていて。
僕は理解し合うことを恐れていた。
「話が逸れちゃったから戻すわね。はい戻した。……代わりなんてない。人間はそう思い込むことで、自分にそう言い聞かせることで、自分を騙してる。なぜならそう思う自分のことがいちばん大事だから。だからこそ”そうじゃなかった時”、過去を忘却する。嫌な思い出だと切り捨てる。誰でもない自分の為に」
だから、と彼女は冷淡にこう締め括った。
「そんな自己愛に塗れた口で、他人への愛なんて語らないで」
それから。
数日して倉橋に頼んでた音声作品が届いた。
一昨年や三年前より完成度は研鑽されていたが、しかし市場クオリティには達していないと思ったし、またぞろ僕は無駄に時間を投資したということなのだろう。
加工された自分の声は、しかしナルキッソスのように愛せるほど魅力的ではなく、むしろ自己嫌悪を催すような歪さを感じさせるそれだった。
言語化し難い感情は湯浴みで流そう。
風呂は命の洗濯だと、ミサトさんも言っていた。
蛇口を勢いよく捻れば、怒涛の勢いで湯水が流れ出す。
浴槽に湯が溜まったから入ろうとして──ふと、何の気なしに、その水面を覗き込んでみた。
しかしうちの家の浴室は光の加減が微妙なので、角度により薄暗がりになりがちで。
だから水面に、
自分の姿は見えなかった。
2024/8/9 都部京樹
執筆BGM
『自己愛主義天使』Nyarons,中村さんそ
『リビングデッドユース』 米津玄師
『メルフェン』Kalafina
全体プレイリスト⇒https://open.spotify.com/playlist/4F2A0A5x6T5DZLZXDXuEoB?si=5ITHGsprQfC4cNoUb7rtPg&pi=a-l6TQp_vMRVCe