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冴えない彼女の愛しかた
自分語りが得意だ。
東西東西。
自分の過去を、自分の感情を、自分の動機を、自分の発端を、自分の現状を──語り尽くす。
現在進行形で私小説を書いている身としては、そうした断言は飛び越えるべき合格点をいたずらに高めるだけかもしれないが、卑屈を演じるよりは良い。
もっとも”自分語り”という言葉をWeblio辞書で引けば、それは悪印象の代名詞であり、まず間違いなく人として褒められた行いではないのだと言う。
しかしながら語れる過去があることは良いことで、語るべき自分を知っていることは悪くないし無駄でもない。他人の受け売りだけで易く生きるようになったら人間はお終いなのである。
語られる人生より語り上げる人生であれ、だ。
そういえば数年前。
就活の際、PR欄に自分の話なら何時間でも出来ますと書いたことがある。すると、とある会社の面接時『では話せるだけ話してみてください』と言われたので、僕は面接時間を超過した75分間に渡って身の上を喋り続けた。
勢い余って。
ヒートテックを使った異形の射精管理を元カノに施されたのが癖になり、一時期 UNIQLOのロゴを見るだけで反射的に勃起する身体になってしまって、安易に店に近付けなくなった話をしたら面接には見事に落とされたが。
前言撤回。
語るべき自分を知っていることは、悪いことかもしれないし無駄なのかもしれない。それが黒歴史なら尚更だ。
ともあれ元より喋るのは好きな方なのだ。
大学時代は劇団ひとりがコント時にする芝居がかった喋り方に憧れて、それを真似しながら日常生活を送っていたので、劇的な語りをする時の緩急もバッチリだ。
幕が上がると共に軽快に語り出すスタンダップコメディアンのように、それなりに”自分を”語り慣れている。
しかしこの大仰に物を語る口を閉じて、ひとたび冷静な視座で物を考えてみれば、そんな僕と同じような経験や自認のある人間は腐るほどいるということに気付く。
誰かが僕の代用品であるように、
僕もまた誰かの代用品なのである。
だから人は、はたして自分という個人にどれだけの価値があるのかをよくよく考えるべきなのだろう。
自分を語る場に立ったならば、これもまた尚更だ。
それに、語るという行為はどうあれ相手がいるからこそ成立する行為なのである。
だから自分を語る時。
語り慣れた自分に、いま一度問い直してほしい。
自分は今、語っているのか。
あるいは、語らされているのか。
出会い頭に三ツ矢サイダーを浴びせられたのは、
変人好きの僕といえど流石に初めてのことだった。
2019年秋口──その時期の僕はある種の鬱病を患っていて、通っていた大学を無断で休講しては、府中の映画館へと通い詰めていた。
どうしてを詰めても回答らしい回答は返ってこない。
それこそ拗らせたのは複合的な理由と記憶しているし、解体と分析を繰り返せば経緯の適切な説明は成せると思うが、湿っぽいだけの話を語るのはどうも苦手だ。
恋人が死んだとか、
親友に裏切られたとか、
才能を前にし挫折したとか、
あの時期のそれはそういう劇的な話ではない。
悲劇的な過去がなくとも人は当たり前に狂うように、
象徴的な一幕がなくとも人は当たり前に病むのである。
ともあれ通っていた大学の講義をすべて欠席し、親の仕送りで購入した54円の2ℓ天然水と冷凍食品を食べ、下宿先で睡眠と起床を繰り返すだけの死人同然の生活を続けるのは流石に危ういと思った。
目的意識を失い、存在意義に惑い、切実な希死念慮だけが嵩んでいくような習慣には、なんとか終止符を打たなければならないと思ったのだ。
引き籠もりの開始日から六日後──僕は電車を乗り継いでTOHOシネマズ府中に赴き、上京からの二年弱で貯めた7000強のポイントを1ヶ月フリーパスと交換した。
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1ヶ月間 どれだけ映画を見ても無料という太っ腹な特典である。
映画の上映時間1分を1Pと換算し6000Pで交換可能だった
つまりこういうことだ。
心を病ませるような悪しき習慣を打ち切るには、
代替となるような生きる為の習慣を作ればいい。
青の時代のパブロ・ピカソが、古い絵画の上に新しい絵画を上書きしたように塗り替えればいいのだ。
至極簡単な理屈である。
だから。
その日から、僕が僕に課したルールは4つ。
①TOHOシネマズ府中にて、絶賛上映されている『冴えない彼女の育てかた Fine』を朝から晩まで回を欠かすことなく必ず鑑賞すること。別の映画は見てはいけない。
②その際は必ず、UNIQLOで購入したモナリザのTシャツを着用すること。白と黒。2ver.所有していたので、毎日その日に着用したTシャツの洗濯も欠かさない。
③朝食昼食夕食は同施設内──商業施設くるる──の1Fに存在するケンタッキーにて行う。毎日3ピースはオリジナルチキンを必ず食べること。
④府中に赴く前また帰宅した後、日に2度の自慰行為を必ず行うこと。その際の性的対象は限定しない。ただしきっちり1日に2回。1回でも3回でも5回でも駄目。
これが僕の考案した僕が生き長らえる為の習慣だった。
それからほぼ一ヶ月間、僕はこの習慣に従う形で府中へと通い詰めた。31日間に渡って習慣を貫徹したと言えれば様になるが、普通に学校に行った日もあった。
それでも本調子を取り戻していなかったので、早退という名のサボりを繰り返していたのは言うまでもないが。
鑑賞する映画を『冴えない彼女の育てかた Fine』に選んだのは、その当時公開していた映画の中でいちばん見たいと思っていた映画だったからだ。
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2015年より2期に渡り放送されていた冴えカノの完結編である。
作品の完結作に相応しい絵に書いたようなハッピーエンドを、僕は他人事のように何度も何度も見送った。
それこそ、その1ヶ月で通算80回は確実に見ている。
作品のメインヒロインである普通の冴えない美少女:加藤恵が、あるいは澤村・スペンサー・英梨々が、またあるいは霞ヶ丘詩羽が、表紙に書き下ろされた劇場特典小説をそれこそ余るほど手に入れた。
飽きる、という感覚はなかった。
それは映画本編が素晴らしいからというよりも、回数を重ねるほどにそんな感覚は壊れていったからだ。
感覚を麻痺させる。
現実と非現実の境界をなくしていく。
これもまた習慣を通した僕の狙いだった。
それはさながら廃人のような様相を想像するかもしれないが、映画を見るにあたり『霞ヶ丘詩羽ってやっぱりおっぱい大きくて最高だな……』と下衆な視点を同時に持ち、帰宅しては霞ヶ丘詩羽で自慰行為に耽っていたので良くも悪くも精力には満ち溢れていた。
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ともあれ。
そんな習慣を繰り返しては自律神経を無理やりに狂わせて、追い立てるような希死念慮を必死に回避して、自分なりにそれでも今日を生きようと足掻いていた。
騙し騙しの日々を送っていた。
そんな中、SNSを通して僕のそんな習慣を聞き付けたらしく『きみに会いたい』と言ってきた個人がいた。
現実の場でも交流のある友人、その友人と聞く。
当時の荒れ果てたメンタリティの僕は進んで人に会う気などなかったし、予定を併せるのも億劫だったので、向こうから府中まで来るならという形で承諾した。
彼は変人である──と友人から聞いていたので、変人愛好家の僕としては願ったり叶ったりの状況だったのだけど、何度も言うようにその時期は本調子じゃなかった。
奇人変人と会えて嬉しい!
鬱なんてもう治っちゃった!
とは、ならないのである。
人間や人生に絶望しているような最悪の心境で、そんな劇的な心変わりなんて、第一に有り得ないのだから。
当日。
府中駅に到着した僕は、くるるに直接繋がる三番出口を出て、時計台近くの石造りのベンチの前で彼の到着を待った。
十五分ほどして、彼が現れた──背丈は僕より一回り大きく、外見年齢は22.23と新社会人くらいのようで、しかしスーツが似合わなそうな軽薄な面構えをしていた。
そして左手には未開封の三ツ矢サイダー。
ここまでの道中に飲んだのでなければ、劇場で飲もうという腹積もりなのだろうか。端的に嫌だなぁと思った。
劇場内で外から持ち込んだ飲み物を飲むようなモラルが低い男と、今日一日ここから一緒なのか……と。
「あなたが七坂さんですよね?」
彼は僕の姿を見付けると、こちらへと迷いなく歩んできて、そんな端的な問い掛けをしてきた。
ここで注釈を入れておくと、七坂というのは僕が当時SNS上で使用していたHNの苗字だ。
現在は巡り巡って本名の都部京樹をそのままPN兼HNとして使用しているが、エッセイにおいて要らぬ混乱を招くので、これ以降は七坂の部分を都部と書き換える。
事前に黒基調のモナリザのTシャツを着ていることは知らせていたので、一目で分かっても不思議ではない。
「そうですけど」
「ですよね。よかったぁ……」
と顔を綻ばせながら、あくまで自然に彼はペットボトルのキャップを捻り、その中身を僕に正面から浴びせた。
何が起きたのかよく分からなかった。
いや、これは正確な表現ではない。
僕には──なぜ彼が初対面の僕に向かって三ツ矢サイダーを浴びせてきたのかがまったく分からなかったのだ。
炭酸にひどく濡れたモナリザへの一瞥を終えて、僕は彼を見た。人好きしそうな軽薄な面で、彼は笑んでいた。
「オレは”こういう”人間です。聞いてますよ。都部さんは変人が好きなんでしょ?」
僕はその言葉に応えない。ただ引き攣った愛想笑いで、彼のシュワっと泡立った挨拶に応える。
その愛想笑いに忍ばせた怒りが感情の九割、けれど残りの一割は停滞した日々へ贈与された変化に対する歓び。
そんな形で、僕の元に意味不明が飛び込んできた。
人間に、あるいは人生に。
絶望するのはまだ早いと言わんばかりに。
「あははははははははははははははっ!!」
大爆笑された。
血糊に塗れた仕事着に袖を通している僕の姿がそんなにも滑稽なのか、目に涙すら浮かべて指を指しながら呵々大笑する彼女ちゃんだが、まず君は服を着ろよ。
帰宅早々の僕に僕好みではない裸体を見せないでくれ。凸凹に乏しい身体で、すっぽんぽんでも嬉しくない。
というか頻繁に髪型を変えられるんだから、胸部や臀部のサイズも日によって変えてくれ。
「私は幻覚だからいいんですぅ〜。全裸で外出しても誰も気にしないもの。私だけの特権よ。特権階級よ」
彼女は、
僕の良心のメタファーを名乗る僕の幻覚である。
僕がハッピーエンドを愛するのに対して、僕への逆張りで彼女はバッドエンド好きを公言する。そんな存在だ。
ちなみにお気に召すのは人が死にまくる映画。その点に関しては同意が出来るので、歩み寄りの姿勢を見せたらお前も早く死ねと罵倒を受けた。理不尽極まりない。
名前も渾名もクレジット記載拒否らしいが、不便なので、彼女(かのめ)ちゃんと僕は勝手に呼んでいる。
しかしながらウザいテンションだ。
仕事帰りの疲弊した身体で受け止めるのは厳しいので、無視して受け流すことにした。浴室に這入り、鏡を前にコンタクトを外す。こういう見た目になるのは初めてではないが、しかし、たしかに今日のは相当だった。
『悪魔のいけにえ』のラストシーンの主人公の外見くらい血に塗れている。
「私はてっきり、ついにアンタが人を殺したのかと思ってウケちゃって」
「ウケちゃって、じゃないよ」
発想がいちいち物騒すぎる。
人畜無害の代名詞であろうとする僕の理性の辞書に、殺人の二文字は載せないようにしている。両親が公務員なので遵法意識は滅法強い方なのだ。
他人を殺せる人間。
他人を殺せない人間。
普遍的な人格を帯びた僕がその後者に位置する存在であることは重々に理解しているし、当然ながら殺害による問題の解決という選択肢は後にも先にもないだろう。
…………この話は前にもしたんだっけ。
エッセイも9回目となれば、自分でも記述がうろ覚えになっていく。自分の話なのに情けない限りだ。
シャワーを浴びて、日課のスキンケアもそこそこに、スマートフォンで時刻を確認すると19時手前だった。
今から夕食を作る気分でもなく、かと言って自宅で悪戯に時間を費やすのも億劫で、そうして逡巡の時間ばかりが過ぎていく。
若人よ、光陰矢の如しを思い出せ。
「今日は映画を見に行くか」
「はーい!今夜の彼女ちゃんはインサイド・ヘッド2が見たいでーす!」
「劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!RE:RE:を見に行くか」
独り言として呟くことで、意思決定を確実な物にする。
夕食はその出先で取ればいいだろう。
なんか途中で戯言が聞こえた気がするけど無視だ。
さて、そうなれば。
どこの劇場で映画を見るかだが、今の時間帯の新宿や渋谷は駅が込み合い、街灯明る街々は大勢の人間による居場所の陣取りによって窮屈を演じているに違いない。
そうだな、久し振りに府中の方へ行くのもいいだろう。
平日の夜の府中は人もそう多くなく、映画館もゆったりと落ち着いた客入りで、帰り道も電車内は空いている──身近に快適さを選ぶなら間違いない選択肢だ。
21時過ぎから上映される映画のタイムスケジュールを確認しながら、僕はいそいそと外出の為の準備を始めた。
自宅用の眼鏡を外してコンタクトを再び着用する。
目薬良し、財布良し、香水良し、携帯充電器良し、そして残るは着ていく衣服だけだ。
クローゼットを開けて、最近 下北沢で購入した黄金色の花々や酒類や金魚が刻まれたアロハシャツを取り出す。
その時。
ふと視界の隅に入ったのは、僕が20歳の誕生日に仙川のホームセンターで首を吊る為に購入した麻縄だった。
残念ながらくお待たせするまでもなく、ネタバレをしてしまえば19歳の秋より悩まされた憂鬱は件のオフ会で解決せず、20歳の暮れまで引き摺ることとなった。
だからこれはその残滓だ。
本気で死のうとして、本気で死のうとしたのに、それでも自分が死を選べない弱い人間であることを思い知った頃の手痛い物証。
そんなのもう捨てればいいのに。
なんとなく、捨てずにずっとそのままにしてある。
時間が止まったみたいに。
自分を殺せる人間。
自分を殺せない人間。
普遍的な人格を帯びた当時の僕がその後者に位置する存在であることは重々に理解していた。
しかし今の僕はどうなのだろう。
そればかりは、考えても理解できなかった。
男は薄田と名乗った。
それが本名だったのか、あるいはハンドルネームだったのかは分からずじまいだ。
「変なことしてる変で病んだ奴が友達にいるって聞いた。だから会いたくなったし、実際にこうして会いに来た。でも初対面じゃん?他人じゃん?どうやって印象的に挨拶しようか考えてたんだよ。それで思い付いたのがアレってこと。最悪の場合は謝ればいいやって。オレって頭を垂れるのは慣れてるからさ。だからごめんね」
あれから。
Tシャツを炭酸で汚された僕が怒り心頭のままに、薄田を殴って蹴っての大団円を迎えたということはない。
彼はすかさず換えのTシャツ──ウエダハジメによる花物語のTシャツをくれたのに免じて許した──を手渡してきたので、僕は施設内の御手洗でそのTシャツに着替えることになった。
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今でも部屋着として愛用している。
考えてみると。
僕が取り決めた習慣におけるルール②が他者の手によって破られてしまったのは癪だったが、薄田という数奇な個人への興味関心が勝ったのでそれもまた許した。
心が広いというよりは。
心身共に疲弊が平時という頃だったので、人に怒ることすらも気持ちとしては避けたかったのかもしれない。
今やられたのならば、普通に取っ組み合いが起こる。
映画の初回の時間まで一時間ほど余暇があったので、ケンタッキーで薄田と話すことになった。
歳上の人間に恭しく敬語を使われるのが気持ち悪かったので、薄田にはタメ口で喋るようにだけお願いをして。
「頭を下げ慣れてる……というのは、なんの自慢にもならないと思いますけどね。まあ薄田さんって人に怒られてばかりな人っぽいので納得感はありますけど」
「シームレスに失礼だな。でも無遠慮な若者は嫌いじゃない。ほら、オレの奢りのチキンを食え食え」
薄田は一日の飲食費を全額負担するつもりらしく、貸し借りが嫌いな僕としてはその申し出に躊躇もあったのだが、滅茶苦茶に食い下がられたので折れることにした。
まあ、本人が払いたいなら払わせるのも礼儀だろう。
僕はオリジナルチキン2ピースにクリスピー1つそれとジンジャエールのMサイズ……だったと記憶している。
それに対して薄田はビスケットを6個頼んでいた。
「チキン食べないんですか?」
「オレはビスケットが好きなんだよ。ケンタッキーではこれしか頼まない」
偏食家の属性もあるらしい。これくらいは好みの問題だろと言われたら、それもそうかもしれないけれど。
「──オレさ、学生時代はよくメンヘラと付き合ってたんだけどさ。あ、今の女はそういうんじゃないんだけど」
ジャブさながらの身の上話もそこそこに、
薄田はそんな風に”本題”を切り出し始めた。
おっと?
メンヘラを上手く飼い慣らしてた俺系の自慢かな。僕の友達にもそういう奴がいるが、ろくなもんじゃねぇぜ。
「都部くんは、アイツらを思い出すタイプの面倒臭いオトコノコなんだよな」
「は?どういうことですか?」
それは若干の怒気を孕んだ問い直しだったと思う。
は?💢💢どういうことですか?💢💢💢💢
くらいにはキレていた。
だって文脈を考えると、絶対に褒められていない。
それに彼の過去の恋愛遍歴に名を連ねる女性の性格など知ったことではないが、そうした物言いは、僕以上にその人達にとって失礼なことなんじゃないかと思った。
昔の恋人を語る時の一般的な態度なんてそんなものなのかもしれないが、それを僕が許せるかは別問題だ。
「ただなあ、ちょっと違う気もする。中学で一人、高校で二人、大学の時に一人。多種多様なメンヘラと付き合ったけど、もっと土足厳禁って感じの性格だったからさ。逆にきみはオープンな癖に拗れてんだよな」
「そんなの知りませんよ。僕の場合は心の構造が米国式なんでしょ。もちろん男女差だってあるでしょうし」
「もしかして怒ってる?」
「そう思うなら態度で示せばいいんじゃないですか?」
「同じ台詞を二個前の元カノに言われたことあるな」
「怒ってますよ!そうですよ、僕は今、めちゃ怒ってます!僕を通して昔の女を思い出してる薄田さんにキレてますよ!これで満足ですか!?」
「きみって、もしかして可愛い奴だな……?」
大人ぶる余裕ある態度が気に食わないのはマジだった。
持ち前の反骨精神が大いに刺激される言動だ。
「そういう経緯もあって今は立派なカウンセラーになる為に勉強中。昔の失敗を将来の成功で取り繕おうってこと。はっはっは、しかし社会に出てみるとメンヘラとはなかなか出会えないね。社会に出てもまたすぐに折れるからかな。学生の頃よりも遭遇率が低いや」
「いい性格してますね。薄田さん、僕が今年会った人の中だとぶっちぎりのクズですよ」
「これくらい割り切ってないとそういう相手とは上手くやれないよ。まあ上手くやれなかったから別れたんだけど。余裕のある時期の学生だからこそ根気よく出来たことが、大人になる度に出来なくなった。受験とか就活とかの節目を迎えるたびに──だって、オレは都合の良い神様じゃない。ただの人間だから」
そのあまりにも倫理を欠いた人間性にドン引きをしたが、しかし言葉尻でそんな風に自分の無力を語る彼からは人間らしい弱さを感じさせるものがあった。
飄々としているようで、それが人間関係の話ともなれば本人なりの本人にしか分からない後悔があるのだろう。
それを汲めないほど僕も子供ではなかったので、その話題に対しての二の句は口にしなかった。
顔も名前も知らない彼の元交際相手が、できれば健やかに自分なりの納得の中で日々を生きていることを祈る。
「……あれ。つまり今回の僕とのオフ、薄田さんにとってはカウンセリングの練習がてらってことですか?」
「That's Right」
That's Rightじゃねぇんだよ。
少しは悪びれてくれ。
「きみは自分の話をするのが大好きなんだね。それとなく色々聞くつもりだったけど、ぜんぜん自分で話してくれたから助かった。きみが大体どういう人なのか、よく分かったよ」
「…………口は災いの元ですね」
そして後悔は後に立たずか。
大人にしてやられたということだ。
しかしカウンセラー志望者による人格分析には、人並みに好奇心をくすぐられるものがあった。
やめておけばいいのに。
僕は薄田にそれを話すことを促した。
「いいよ。でもオレははっきり言うから怒らないでね」
そんな不穏な前置きと共に、彼は語り出す。
僕という人間に対する仔細な分析結果を。
「人と向き合うということは、同時に自分に背を向けるってことだ。これは精神状態の優劣に限らずだが、人は弱ると外的存在に慰諭を求める。これは外側に関心を向ければ、ぐずぐずになってる”内側”を見ずに済むからだな。そういう無意識下の打算行為なんだよ。
「とはいえ人間には多かれ少なかれ自己愛がある。外的存在による精神的な癒しより、自分自身の手で精神を宥めることも出来る。しかしメンヘラはこの人並みの自己愛を維持できなくなったからこそ、あるべきはずの手段を失い、その分だけ外的存在に対して過剰な愛を求めるというのがよくある傾向だ。ここまではいいかな?
「きみの場合はその逆なんだね。自分と過剰に向き合うことで、他人と本気で向き合うことを避けている。他人に自分や自分の感情を晒すことを恐れているんだ。特定の期間から好きな人が出来てないと言うけど、もしかしてそこで対人関係を理由に大きく傷付いたりしたのかな。別に言いたくないなら言わなくてもいいけどさ。
「きみはそうして人並み以上の自己愛を用いることで、なんとか自分の精神を平静な状態に保とうとしている。でもそれには限界がある。ぐずぐずになった内側を目の当たりにしながらも、それでも自分を愛そうとする自己矛盾した感情を抱え続けたら、いつか爆発するよ。
「子供の頃はよく人と喧嘩をしたらしいね。殴ったり蹴ったりだっけ? だから多分、本来のきみはもっと暴力的で感情的な人間なんだよ。理性や規範や習慣で加虐心を抑えてはいるけど、本当は感情のままに人を傷つけたいんじゃないかな。そういう自分の恥ずべき本性からずっと逃げてるんだよ。”こんなの”は自分じゃないって
「自傷のような習慣を繰り返せば他人を傷つけずには済むのかもね。でもそれは不健全だよ。人間らしくない。きみには、きみの意志で誰かを傷付けていい権利もあるのに。権利を行使する以上は責任を負うことも念頭に置かないとダメだけどさ。自ら選択肢を絞るのは歪だ。
「きみは卑しい人間だよ。言葉が弱いか。言い直す。きみは卑怯だよ。卑怯な人間だ。誰も傷付けない生き方なんて人間には出来やしないのに、それに殉じようとする形で、本来の自分の姿形から逃げている。自分の意志で、人を”ちゃんと”傷付けることから逃げている。
「自分にレッテルを貼って誤魔化してるんだ。自分にそんなことは出来ない。自分の倫理がそれを許せない。良心がそれを止めるから──そんなの嘘だろ。きみは酷い人間だ。だからこそ酷いこともきっと出来てしまう。
「言い訳をするな。本当にしたいことはなんだ。すべきだと思ってることはなんだ。今すぐとは言わないよ。でももし機会があれば、ちゃんと考えてみてほしい。
「きみが本当にしたいことってなんなんだ?
「本当は──×××××だけなんじゃないのか?
「……まあ、色々言ったけどさ。とりあえず今してるような習慣はやめた方がいいよ。オレ個人はそう思う。
卑怯。
人格を形容される熟語としてはなかなかに辛辣で、辛辣だからこそ当然に面食らうし、しかし納得感があるからこそ口から文句の一つも出ないのが嫌だった。
他人に自分を見透かされるのは良い気分ではない。
見透かされた先に脆弱さがあるならば尚更だ。
そんなの分かっていたはずなのに。
「そろそろ時間か。映画館にはそこのエレベーターで行こう。オレ、エレベーターって苦手なんだよ」
ほんの30秒前まで、明け透けに他人の人格を評定したとは思えない軽快な態度で薄田は立ち上がり、ゴミを捨てた後に僕を先導する。
”これくらい割り切ってないとそういう相手とは上手くやれない”ね。
その言葉の輪郭が掴めた気がするし、ともすれば彼は本当にカウンセラーに向いているのかもしれなかった。
「薄田さん。ちなみに今はどんな女の子と付き合ってるんですか?」
だから、なんとなく気になった。
多種多様な精神を持ち崩した女性と交際してきた彼が、そうした経験の先で、では改めて恋するに至った女性とはどんな人なのか。
僕のそんな恋バナめいた質問をどう思ったのかは分からないけど、間を持たせて、彼は事も無げに言い切った。
「普通の子」
31アイスクリームを訪れた時。
頼むフレーバーは、ポッピングシャワーと決めている。
数珠玉を思わせる赤と緑のロックキャンディが、線香花火のように口内でぱちぱちと弾ける歯応えのよさ。その甘味を引き締める清涼感のあるミント基調の絶妙な味わいは、それだけで神の御業だというのに、あろうことかチョコの風味を足すことで更なる飛躍を遂げ完成する。
なんたるハイセンスな甘味だろうか。
その氷菓に魅了されてからというものの、31ではこれしか頼まない。これだけあれば充分だ。
だから本日──商業施設くるるを訪れた僕は、1Fに位置する店舗で6個のポッピングシャワーを注文し、溢れんばかりの満足感に舌鼓を打っていた。
「ダウト。アンタが31でポッピングシャワーを頼むようになったのは、アンタの好きな子がその味を好きだと知ってからよね。31で特定の味に拘るような頼み方は前までしてなかったじゃない。むしろこういう店で、同じ味の物を複数個頼むのは避けるタイプでしょ。それにミント味なんてそんなに好きじゃないくせに。わざとらしいのよ。成長を見せない子供舌が。好きな相手の好きな味を好きになりたいという涙ぐましい努力に浸る自分に陶酔するのは勝手だけど、好きな相手への愛の証明(笑)の為に31を踏み台にする性根が気に食わないわ。いい男になりたいなら視野を広く持ちなさいな。もっとも? いくらそのためとはいえ、後先考えずに同じ味のアイスを6個も頼んでるお馬鹿さんには難しい注文かもしれないけどね」
「…………アイス溶けるから早く食べなよ」
彼女ちゃんの冷ややかな横槍を受けながら、僕は三個目となるポッピンシャワーを口に運んだ。
残り三個。嘘だろ、あと三個もあるのかよ。
流石に口が飽きてきたぞ。
「お残しは許しません」
そう言って、彼女はカップの底に残ったサンセットサーフィンを食んだ。
どことなく、
彼女の髪色とそのアイスの色合いは似ていた。
府中駅に到着した僕らは上映時間までに腹ごなしを済ませることを決め、夕食にはやや遅い20時過ぎということもあってか、その日の夕食に31に決めた。
府中駅に纏わる僕の過去を意識してなのか。
本日の彼女の髪型は霞ヶ丘詩羽を模したものになっている。白色のカチューシャをどこから持ち出したのかは不明だが、こうして見ると2Pカラーみたいだった。
「よし、食べ終えた。ピース!」
アイスのカップをゴミ箱へ華麗に投擲し、アルカイックなスマイルを浮かべて、掛け声と共に僕の方へ手の甲を向けた謎の背面ピースサインを見せる彼女。
「それリサイクル・リサイタルの時もやってたけど、マイブームかなんかなの?」
「よくも聞いてくれたわね」
「なんか地雷踏んだ?」
「口が冷えたから噛んじゃった。よくぞ!聞いてくれたわね!この私が考案したピースはあらゆる感情に適応可能な万能ハンドサインなのよ。今までありがとう、お前はくたばれ、これからを応援してる、お前マジふざけんな、どうかお元気で、そんな矛盾した色んな感情をいっぺんに示すのがこのピースなの。便利でしょう。アンタも好きに使っていいわよ」
「………………」
それって、ガールズ・バンド・クライの小指を立てるハンドサインのパクリなのでは……?
なんか最近見終えたとか言ってたもんな。
『ぼっち・ざ・ろっく!』の二番煎じとか腐してたくせに、絆されるのが早すぎる。こういうミーハーなところは僕にも通ずるところがあるのが、なんか嫌だな。
「それで──その不愉快な男とはどうなったの。実はまだ明かされてないだけで、アンタの好きな子と付き合ってるのが実は薄田だったりするのかしら」
「そんな伏線の回収はないよ。現実の話なんだから。別に。どうにもならなかったけどな。薄田とはその日会ったきりで、友達の友達だからFFの関係でもなかったし、その後の動向はよく知らない」
はたして彼はカウンセラーになったのだろうか。
順当になってそうだし、一方ですっぱりと将来を考え直して別の職種に就いていそうでもある。
「ふうん。なんか淡白ね」
「愛着を覚える前に縁が切れたのもあるんだろうな。まあ、趣味嗜好も重なりそうになかったから、もしもを想像しても次第に疎遠になるのは見えてたけどね。……だけど不愉快な男ってのは随分な言い方だな。たしかに性格に難がある人だったけど、そこまで言い切るんだ」
「だって嫌じゃない。一方的に相手の性格を読み切って、失敗した言動や過去から人格的な瑕疵をあげつらって、自分の言いたいことだけ言って勝ち逃げを決め込むなんて、それって人でなしのすることよ」
「………………」
それはきみが、僕にいつもやっていることだ。
「思ったより的を射た分析だったから僕はそんなに気にしてなかったけど、まあ、人によってはそうなのかな」
とは言うが、当時の僕がそんな分析を耳にして防衛反応を働かせたという節は、しかし否定できない。
自分が他者によって解体されていく感覚。
解体された先にある醜悪な実像を直視したくなくて、僕は薄田との疎遠を意図的に選んだのかもしれない。
卑怯な人間、
やはりそれは言い得て妙だ。
仕方ないという言葉で自分を慰めるにはその真相は情けなくて、だからそれは、僕もまた一人の矮小な人間であることを改めて意識させるような遅効性の味だった。
「他人を”育てよう”なんて発想が間違いなんだろうな。単純な話だ。冴えない彼女がいたとして、その時は相手の冴えなさの中に愛おしさを見い出せばいい。冴えない彼女を冴えないままに愛せばいい」
どう考えても特定個人を想っての薄田の映画レビューはなんだか笑えるものがあったが、しかし言っていることには一理あると思った。
「普通ってのはな。普通に冴えないし、普通にしょうもないし、普通に面倒臭いし、普通に可愛げがないし、それでも”普通に”好きってことなんだろうな」
「薄田さんが今の彼女さんのことを大好きなのは、とにかく、もうよく分かりましたよ」
不適量の愛情に振り回し振り回された彼だからこそ、適量の愛情の尊さを語れるのかもしれないが、”あれから”女性不信を拗らせてちゃんと人を好きになれていない僕にとっては、それはおよそ無縁な話だった。
度を超えた愛情は狂気あるいは凶器になる。
To be Kyouki、ね。
冴えない言葉遊びだ。
「じゃあ気を利かせて聞きますけど、彼女さんのどんなところがいちばん可愛いと思うんですか?」
映画の感想戦はもう終えている。
だからこのまま放置すると、薄田による惚気が延々と続きそうだったので、話を締めるという意味でもそんなことを聞いてみた。
「彼女、生理が重いタイプなんだけどさ。そん時 露骨にオレに対して不機嫌な態度を見せるんだ。普段はどっちかと言えば可愛い系だからそのギャップが好きなんだよな。そんな時でも、ベッドから左手出して手握って欲しいってお願いしてくる時がいちばん可愛い」
「それあんまり人には言わない方がいいですよ」
なにもかも台無しだった。
あなたは、二言目を喋らない方がいいよ。
「僕、ちょっと飲み物買ってきますね」
一旦、薄田と別れて くるるの外に出た僕は近場のコンビニでコカ・コーラゼロを購入。心中に渦巻くその感情の持続を確認し、中に戻ると彼は自由演奏可能なピアノの前に座って出鱈目に鍵盤を叩いていた。
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「ピアノ弾けないんですか?」
「普通は弾けないだろ。都部くんは弾けんの?」
「少しは……。母が雇われのピアニストだったので、だから僕にも音楽の才能を発揮させたかったのか、半ば強制的に練習をさせられてましたね」
言いながら、薄田が座っていた席へと座り、昔の記憶を頼りに鍵盤に触れてみる。
最後に弾いたのは六年も前の話だ。
あれから成長期を迎えて骨張った手になったし、詰め込み型の教育で覚えた楽譜もろくに覚えていない。
とはいえ昔取った杵柄だ。
手探りに弾いてみる。
クロード・ドビュッシーのアラベスク第1番。
そういえば、ドビュッシーの女性遍歴は到底褒められたものではなかったと聞く。
不貞や浮気は当たり前。
婚約中に不倫を繰り返しては、相手方の女性を自殺未遂に追い込んでいたらしい。43歳の時。かつての不倫相手であるエンマ・バルダックと再婚してからは、その悪癖もなりを潜めたらしいが。とはいえ、それで過去の不貞の罪がすべて帳消しになるわけではないだろう。
しかしながら。
ドビュッシーの作り上げた曲はそれでも美しい。
自信家の彼らしい堂々した感情表現を織り込んだ旋律の数々は印象派として後世に多大な影響を残し、当時の風潮に中指を立てるような型破りな音使いは、そうした女性遍歴を作風の納得の為の一因にすらしてしまう。
だからなんとなく、薄田の前で彼の代表曲であるアラベスクを弾くのはお誂え向きだと思った。
「──あ」
素人目にも分かる弾き間違えを演じた僕は、鍵盤を叩く手を止める。昔の自分ならば絶対にしない類の間違い。
自分の掌をなんとなく見つめて、昔と今の差異を考えるけれど。骨格という形あるものの変化以上を今は読み取りたくなくて、誤魔化すように立ち上がった。
「薄田さん、ちょっと外に出ませんか?」
僕は彼の方に向き直り、その目的の為に薄田を外に連れ出すことにした。
「なに?2回目見る前に昼でも食べるの?」
と、呑気なことを言いながら着いてくる彼を確認して、僕は先導する形で本日の待ち合わせ場所まで戻り。
そして先程購入したばかりのコカ・コーラゼロを、彼に向かって勢い良く浴びせた。
どうしてを詰めれば、そこには回答らしい回答がある。
あれから僕は彼と二人で並んで映画を見た。
作品の完結作に相応しい絵に書いたようなハッピーエンドを誇る映画を。はたして何度目かの鑑賞になる僕にとっては既視感の嵐だったけれど、ふと、彼がどんな感想を抱くのかが気になった。
精神的不調に取り憑かれた女性達と交際し、それ故に達観した人格を帯びていて、どことなく性根が曲がっている彼の感想が。
だからエンドロールの最中に、僕はふと彼の横顔を見た──彼は満足そうな顔をして泣いていた。
ハッピーエンドをただ見送る僕とは違う。
そのハッピーエンドを、彼は受け入れていたのだ。
こんなに淀んで捻じ曲がった人間が、僕の出来ないことを当然のように出来ているという事実にムカついた。
だからコカ・コーラゼロを手に取った。
小市民の僕としては、そういう形で飲料を無駄にするのは気が咎めたが、それでも衝動は止まらなかった。
「自分が間違ってるような感覚に陥ったんです。今の僕は人に誇れるような正しい生き方をしているとは言えないけど……ただそれでも、なんだか間違いとして指摘されたみたいで嫌な気分になったんです。子供っぽい衝動的な行動ですよね。ごめんなさい。クリーニングって幾らくらいかかるんでしたっけ」
「いやいや、オレも朝やったから気にしなくていいよ」
僕の無軌道な抵抗を受けても、薄田は涼しい顔で大人の余裕を見せた。なんなら彼は笑ってすらいた。
「気持ちは分かるよ。似たようなことを昔されたことがある。しかし都部くんさ。わざわざ俺と同じやり方を同じ場所でするとか、なんかあれだね、きみは根本的にクソ真面目なんだよな」
またぞろ昔の女性と僕を重ねられたことに苛立ちをお覚えたが、しかしここで怒るのはお門違いだし、今の僕は薄田の言葉を甘んじてる受ける他ない。
「大人からのアドバイス。人に報復をするなら相手が絶対に予想できないし想像しないようなやり方でやらなくちゃ駄目だよ。相手をちゃんと傷付けるってのは、そういうやり方じゃないと成立しないから。覚えときな。でもそうだな。今日一緒にいて、オレにはよく分かったよ」
そして、二言目として告げられた薄田の言葉は。
予想できないし想像しないような。しかし妥当性のある、僕をもっとも傷付ける鋭利な断言だった。
それこそ、死にたくなるくらいに。
「きみって──案外どこにでもいる普通の人なんだね」
映画を見終えて、僕らは帰路に着くことにした。
元々『ぼっち・ざ・ろっく!RE:RE:』は、僕の好きな子の彼氏と二人で見に行く予定だったのだが、問題が発生したのでその予定は盛大に流れたのだった。
機会を失うと、途端に鑑賞が先送りになって別の映画の予定が嵩むのが映画好きの性なので、行き当たりばったりの予定とはいえ今月中に見れて良かったと思う。
くるるを出ると、およそ5年前に薄田と炭酸を浴びせ合った時計台の姿が見えてくる。府中は頻繁に来る場所なので、懐かしむにはノスタルジックが不足していた。
「なくならないわよ」
と、僕が考え事をしながら駅の方へと歩いていると、背後の彼女ちゃんがそんなことを言った。
さっきまで推しである伊地知虹夏の後編での活躍を褒めちぎっていた黄色いトーンとは異なる、いつもの僕を断じる時に用いる寒色のトーンだ。
良心のメタファーを名乗る彼女の方へ、僕は向き直る。
「たしかにあれから時間が経ったわね。そんな風に失敗や苦渋を振り返れるくらいには過去とも距離が出来た。好きな人も出来て、精神も比較的安定していて、少しは大人になったのかもしれない──でも、だからなに?」
彼女はそんな風に。
培った過去と現在を一様に切り捨てる。
「どんなに綺麗なもので拭っても、どんなに幸福に恵まれても、アンタの中に芽生えた その希死念慮は一生消えてなくならない」
「そんなの、分かってるよ」
「分かってないわよ。何も分かってない。アンタはただ目を逸らすのが上手くなっただけ。目を逸らし続けて生きることなんて誰にも出来ないの。だってその問題は変わらずアンタのすぐ傍にあるんだから。だから、ゆめゆめ それを忘れないことね」
「──だったら」
いつもならここで彼女との対話は終わっていただろう。
しかし今日は違った。
薄田との件を思い出して、僕はもう一歩だけ踏み込むことにした。自分の良心と対峙することで分析を試みた。
「僕はどうすればいいんだ。もし、この気持ちを抑えられなくなった時──じゃあ僕はどうすればいいんだよ。教えてくれよ」
「そんなの知らないわよ。私に答えを求めないで。これはアンタが決めるの。アンタにしか決められないことなの。自分は世界一不幸ですみたいな面で責任から逃れないで。それって卑怯だし最低よ。不幸なのはアンタだけじゃない。だからちゃんとしなさいよ。分かるでしょう? 誰しも人は選択を迫られるの。自分を殺すか、それが嫌なら、代わりに他人を殺すのか」
「……本当にそうか? そんな重い責任を本当に僕は負わなきゃいけないのか? 僕はただの人間なんだ。偉人でも変人でも狂人でもない。よくいる普通の奴なんだよ。責任から逃げることがそんなに悪いことかよ。だって僕には、そんな責任に耐えられるわけがない」
「たしかに。普通の人間には無理ね。もしかしたら幻覚にだって無理かもしれない」
だから、
と彼女は僕に例のピースサインを向けて、こう言った。
「神様に成り上がれ」
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よく分からないアドバイスだった。
人間じゃ出来ない、
幻覚にも出来ない、
だから神様になって解決しろって?
具体的な解決策が欲しいのに、煙に巻かれた気分だ。
新宿方面へと向かう電車をホームで待ちながら考える。
自分を殺すか、
他人を殺すか、
その二者択一を迫るような。
そんな決定的な機会が、いつか訪れるのだろうか。
僕が屈託なく夜風の心地良さを安らかに感じられる日ははたして訪れるのだろうか。
……どうだろう、やっぱりよく分からなかった。
そんな形で。
本日も玉虫色の解答を選んだ僕だったが、しかしそんな曖昧は永遠には許されず、機会は刻一刻と迫ってくる。
語ることを避けていた、避けなければならなかった、
そんな本題との対峙の機会は遂にやってくる。
たとえば自分が、たとえば他人が、たとえば彼女が、たとえば彼氏が、たとえば恋心が、たとえば愛心が、たとえば羨望が、たとえば嫉妬が、たとえば激怒が、たとえば憐憫が、たとえば懇意が、たとえば殺意が、たとえば愛着が、たとえば執着が、たとえば報酬が、たとえば報復が、たとえば変人が、たとえば凡人が、たとえば過去が、たとえば現在が、たとえば僕が──そのすべてを決着させる為の幕は、もうまもなく上がろうとしていた。
2024/8/30 都部京樹
執筆BGM
『吃音症』バズマザーズ
『BADモード』宇多田ヒカル
『アラベスク 第1番』クロード・ドビュッシー
『声なき魚-新川崎(仮)-』トゲナシトゲアリ
全体プレイリスト⇒https://open.spotify.com/playlist/4F2A0A5x6T5DZLZXDXuEoB?si=SFttyrwpQpqwFKndF9qOGQ&pi=a-pBpzfGoqQ1-s