第355話 『ビル・スレイター、猛り狂う』
慶応元年六月二十六日(1865/8/17) 琉球
「オレはオールコック! あんたに言われてやったんだぞ! 銃もあんたが用意した! どうやるかっていうシナリオまで、準備していたじゃないか。サツマだったのは偶然だが、あんたが親玉だろうが!」
オールコックに免罪を条件に生麦事件の誘発を命令された、ビル・スレイターである。
「黙れ、スレイター!」
ニールが怒声を上げて拳を机にたたき付けた。
オールコックは少し驚いた様子だったが、冷静にニールとビルのやり取りを傍観している。周囲の列国公使・領事たちは一斉に身を乗り出し、ロシア領事は『これは面白い』とつぶやきながら冷笑していた。
「お前は何を言っている! 根も葉もないデタラメを言うんじゃない!」
「失礼、ニール前代理公使。あなたはこの方を知っているのですか?」
次郎が間髪を入れずにニールに切り込んだ質問をした。
「……直接は知りません。しかし、新聞で生麦事件を起こした犯人の一人が横浜の病院に入院していることを知りました。だからその名前を呼んだのです。オールコック卿を名指しで批判したので、つい私も名を呼んでしまいました」
見知らぬ人間を、いきなり名指しで呼んで侮辱するとは考えにくい。
しかし新聞で名前を知った点は筋が通っているし、一人は死んでいる。残ったこの男がビル・スレイターなのは間違いないのだ。
「なるほど」
実際ニールとビルは面識がない。
ニールが生麦事件を知ったときにはすでに二人は上海行きの船に乗船していたのだ。
次郎は一言うなずいて、会話の主導権を二人に戻した。
しばらく様子を見ようと考えたのだ。
(おい……オールコック卿は関与を認めるが、銃の所持や威嚇の襲撃は無関係、そういうシナリオじゃなかったのか?)
ビルが再び声を荒らげる。
「嘘つきめ! オールコック! お前の指示じゃねえか! 認めろ!」
ニールは冷静に聞き流している。
「私はこの男を知りません。新聞で名前を知っただけです。彼の主張に根拠はありません」
ビルは机をたたいて勢いよく立ち上がろうとしたが、背後の日本人警備兵に制止された。
次郎はビルに対して落ち着くように促し、静かにオールコックに向き直る。
「オールコック卿、スレイター氏の主張に反論はありますか? ご意見をお聞かせください」
「私はこの男の主張を全面的に否定します。生麦事件に関与した事実はありません」
オールコックは深呼吸して、ゆっくりと口を開いた。
「ふむ」
次郎はうなずき、慎重に言葉を選ぶ。
「1862年12月頃、英国政府が日本に関する何らかの対応策を検討していたとの情報を得ています。オールコック卿、この点はいかがですか?」
「外交政策の詳細を、ここで議論するのは適切ではありません。しかし、どの国も常に様々な状況を想定して対策を練るはずです。それは平和的な外交努力の一環なのですから」
オールコックは表情を変えずに答えるが、意に介さず次郎も静かに続ける。
「その情報に具体的な証拠はありませんが、当時の貴国の動きを見ると、何か特別な準備があったのではないかと思えるのです。オールコック卿、本当に生麦事件に関与していないと断言できますか?」
「私は事件当時、帰国しておりました。ニール氏が代理公使として適切に対処したと確信しています」
オールコックの声がかすかに震える。ロシア領事のエヴゲーニイ・ビュツォフは指で机をたたき、アメリカの代理公使アントン・L・C・ポートマンは側近と話し込んでいた。
次郎は脇に置いてあった文書箱から紙の束を取りだして広げ、全員の注目が集まる。
「これをご覧ください。1863年2月付のNorth China Herald内部文書によれば、『薩摩藩への威圧的措置が必要』とあります」
米国代理公使のアントンが『これは外交文書か?』と身を乗り出した。
「これは特派員ジェームズ・バートンの未発表原稿です」
次郎の指が『生麦事件は予期された衝突』の箇所をなぞる。
中立であるはずのオランダ代表ポルスブルックが筆跡を検証し、『確かに、本人の署名がありますね』とつぶやく。
次郎は各国の代表の行動にほくそ笑むが、表向きはオブザーバーと仲介者である。目配せをしてゴホン、とせき払いをする。各国の代表者も次郎の意をくんだのか、その後あきらかな発言はなかった。
「でっち上げだ! 誰だそのバートンというのは! いくらでもねつ造できるじゃないか!」
ニールが突然立ち上がって書類を指差しながら叫んだ。
勢いで叫んだニールであったが、チラリと横目でオールコックを見るも、オールコックは無表情であった。
(……オールコック卿? ? シナリオが完全に違ってきておりますぞ)
「オールコックが命令したに違いない! 上海で紅幇ほんぱんを使い、証拠隠滅を……」
ニールに対抗して、ビルが再び吠えるように声をあげた。
……オールコックの額に光る汗が白い襟に染みを広げていく。
「ビル・スレイターもジェームズ・バートンも、それから『紅幇』など、まったく知りませんな……」
オールコックの発言に、パークスの表情が変わった。
オレはニール代理公使からの依頼で2人組を捜索しただけだ。
捜索して身柄を確保しろとの依頼から考えれば、日本に知られてはまずい状態だったはずだ。
あのときオレは、適切に『対応』ではなく『処理』と言われた。
それが何を意味するかは理解できたし、生麦事件に関わっているならなおさらだ。
しかしオレは、警察署長には『わかっているね?』としか言っていない。
断じて殺害など指示していないのだ。
紅幇など……。
くそ、あいつらめ。どこまでオレの足を引っ張るのだ。
「1862年11月の紅幇幹部・張阿祥の自白書があります」
次郎が掲げた漢文の書簡には、鮮やかに清国官憲の押印があった。張阿祥は当時の紅幇の幹部であったが、なんらかの罪状で捕らえられ、司法取引で自白と署名をしたのだろう。
翻訳された文書が各人に行き渡る。
「『英人より銀百両を受け取り』との記述があります」
「バカな! でっちあげだ!」
警察署長と一緒に2人の捜索を指示した、あの紅幇幹部の張阿祥である。
(なぜだ? 遼東か山東へ逃れていたはずではないのか? まさか、この証言のあと山東へ逃げたのか?)
パークスの表情は、発言とは裏腹に血の気が引いていくのがわかる。
いや、待て待て。オレは捜索を依頼はしたが、殺せなどとは一言も言っていないぞ。それにこの件は生麦事件とは直接関係がない。勝手にやったんだ。
いや、2人が生麦事件に関与しているのは知っていた。
だから確保の依頼をされて、実行したのだ。
……無関係、ではないか。しかし、捜索の実施とオレの責任問題とは関係がない。
待て、よくよく考えたら、オレは被害者ではないか?
「パークス領事、お久しぶりです」
聞き覚えのある声がパークスの耳に届いた。
次回予告 第356話 『沈む泥船、逃げる2人』