第350話 『賠償金交渉と英国議会』
慶応元年二月十五日(1865/3/12)
台場大砲製造ならびに設置費用 2,870,000ポンド
艦載砲製造ならびに換装費用 33,000ポンド
艦隊運用費用 87,000ポンド
台場損害回復費用(長州) 52,000ポンド
艦船修理費用 53,000ポンド
死傷者賠償金額(2+7)85,000ポンド
総合計 3,180,000ポンド
「ガウワー殿、もう何回言ったかわかりませんが、なぜこの金額に納得していただけないのですか? まさか講和とは名ばかりで、のらりくらりと時間稼ぎをしている訳ではないでしょう?」
次郎は淡々と、もう何度いったか忘れてしまったセリフを繰り返す。
金額を比べれば、アヘン戦争の約3分の2である。
アヘン戦争では捨てられたアヘンの賠償金に約150万ポンドが充てられた。そして戦費として約300万ポンド、中国商人の負債に75万ポンドの合計525万ポンドが、清からイギリスへ支払われたのだ。
大砲製造費用や艦隊の運用費用、それに死傷者への賠償をひっくるめて戦費分と考えれば、妥当といえば妥当な金額と言える。
交渉開始から3か月が経過した今も、賠償金の多寡については結論がでていない。
ガウワーは次郎の言葉に対して即座に反応せず、沈黙した。彼の表情からは、慎重に言葉を選んでいることがわかる。
「我々としても、この交渉を早期に妥結させたい想いは日本側と同じです。しかし、提示された金額の妥当性については、なお検討の余地があると考えています」
「では、何を、どのように検討するのですか?」
次郎の問いかけにガウワーは背筋を伸ばし、組んでいた手を解いてテーブルに軽く。
「まず、台場大砲製造費用ですが……」
と前置きし、口を開いた。
「貴国が提示した金額の内訳を拝見しましたが、最新鋭の大砲を多数設置したとあります。確かに、長州藩の砲台は我々にとって脅威であり、多大な損害をもたらしたことは認めましょう。しかし、その全てが最新鋭の大砲であったとは考えにくい。旧式の砲も混在していたはずです。その点を考慮すれば、製造費用は過大に見積もられているのではないでしょうか」
ガウワーは言葉を区切り、次郎の反応をうかがうように視線を向けた。次郎は微動だにせず、その視線を受け止めている。
はあ……。次郎はため息をした。
「まさか、台場の費用の内訳が、長州の台場だけだと思っていらっしゃるのか? だとすれば確かに法外です。しかし長州、薩摩、江戸内海の台場すべてなのです。しめて410門、1門につき7千ポンド、合計287万ポンドとなります」
実は、開戦が決定的になってから製造したわけではない。クルップ砲と改良アームストロング砲の国産が実用化されてから、すでに量産を続けていたのだ。
それに本当は全てがクルップ砲ではない。
さすがに間に合わなかったので、鹿児島と下関を優先し、江戸湾は可能性が低いとして後回しにしたのだ。これは叱責を受けるのを覚悟の上である。
仮にイギリス艦隊が江戸湾を封鎖するにしても、事前のシミュレーションで確率が低いとふんでいたからだ。それにもし江戸湾にきたとすれば、それこそ全艦隊をもって迎撃していた。
そのため最狭部の観音崎と対岸のみに配置したのだ。
すべてではないので、ふっかけていると言えばそうだが、調査しようがないし許可もしない。
『410門もの大砲……』とガウワーはつぶやき、考え込んだ。
会談室の空気はさらに重くなり、書記官たちはガウワーの次の言葉に神経を集中させている。
「……確かにそれだけの数の砲台を設置したとなると、費用もかさむでしょう。しかし、その全てが今回の紛争で使用されたわけではありませんよね? 以前から存在していた砲台も含まれているはずです。今回の紛争に関わった分のみを計上すべきではないでしょうか?」
「確かに、以前から存在する砲台もありますが、それらも今回の紛争に備えて改修・強化をしました。その費用も当然含まれています。さらに砲台の設置費用だけでなく、弾薬の製造費用、砲兵の訓練費用なども含まれているのです」
次郎は静かに答えた。
それは――。
ガウワーは反論しようとしたが、次郎はそれを遮るように続ける。
「ガウワー殿。貴国が支払うべき金額は、我々が被った損害に対する正当な賠償です。これ以上交渉を引き延ばしても、結論は変わりません。一日も早く講和を結び、両国の友好関係を築くためにも、現実的な判断をお願いします」
ガウワーは次郎の言葉に反論できず、苦悩の表情を浮かべている。会談室の空気は張り詰め、イギリス側の書記官たちは息を潜めてガウワーの次の一手を待っていた。
「……わかり、ました。この金額で本国の了解をとりつけましょう。しかし一括は厳しい。分割払いにしていただくことと、英日関係の可及的速やかな復旧を求めます」
ガウワーは力なく答えた。
「いいでしょう。ただしこちらにも条件があります。生麦事件の事実解明とオールコック前公使、ニール前代理公使、パークス駐清国上海領事の証人喚問を要請します。もちろん、こちらからも前上海領事館員と襲撃の実行者を同席させます。ちなみに襲撃の実行者はすでに謝罪が終わり、立て替えた慰謝料の支払いも終わって、両者の間には遺恨がありません。この意味、おわかりですよね? 生麦事件は、別問題です」
「……」
ガウワーにとって、長い、長い沈黙が訪れた。
■イギリス議会
「首相! これはいったいどういうことでしょうか? 大敗したにもかかわらず、まだ戦争を、武力行使を続けるつもりなのですか?」
野党であるエドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)が、首相であるパーマストンを激しく追及している。
「そんなことはありません。政府としても一刻も早い事態の解決を願っており、そう現地の代理公使に伝えています」
「ではなぜこのような状況なのですか?」
ダービーは手にかざした新聞数紙を振り回していった。
『時間稼ぎか? 賠償金交渉遅延!』
『日英協議、膠着状態続く』
『帝国、賠償金支払いに難色』
『講和交渉、暗礁に乗り上げる』
『拿捕艦返還時期、なお協議中』
まさに、新聞各社がイギリスの対応を批判していたのだ。
「生麦事件の未解決が、この交渉の遅れに影響をおよぼしているのではありませんか?」
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