第340話 『ヴィクトリア女王とイギリス議会、そして朝廷からの叙位任官』
元治元年八月十五日(1864/9/15) イギリス ロンドン バッキンガム宮殿
「首相、いえ、パーマストン卿、もう余が聞きたいことはわかっているでしょう? 毎日毎日、市井を賑わせている噂を聞いたのだけれど、さすがに噂でこれだけ盛り上がるほど、余の臣も新聞も愚かではないと思いますが、どうですか?」
静かで冷静な声だったが、怒りに近い感情がにじみ出ていた。
パーマストンは女王の鋭い視線を受けて言葉に詰まってしまったのだ。
「陛下、確かに噂されている事態が発生したのは事実でございます。しかし詳細は現在調査中であり、断定的なことは申し上げられません」
女王は不満げな表情を浮かべて続ける。
「調査中と言いますが、すでに多くの新聞が詳細を報じているではありませんか。朕にも情報は入っているのです。日本での2度の敗北、艦隊の壊滅、提督の戦死と捕虜。これらは事実なのでしょうか?」
「はい、その大筋は事実でございます。しかし、被害の程度や戦闘の詳細はまだ確認中の部分もございます」
女王は厳しい口調で問いただす。
政治家が詭弁を弄することは誰もが知る事実であり、パーマストンもまた、嘘ではなく受け取り方によってはどうとでも解釈できる言い回しに徹していたのだ。
「なぜこのような事態を招いたのです? 朕は常々、日本との外交には慎重であるべきだと進言してきたはずです。それからもっとも重要な事は、戦争の発端となった事件に、わが帝国が関与している可能性があるとの話も聞きました。それは事実なのですか?」
パーマストンは女王の矢継ぎ早な鋭い質問に動揺を隠せない。クリミア戦争やインド大反乱を乗り越えてきた自信と自負があったのだが、今回の失態はそれらをすべて帳消しにできるほどであった。
「陛下、日本との外交に関しては、常に慎重を期してまいりました。しかし、現地の情勢は複雑で、予期せぬ事態が発生したのも事実です」
女王はその言葉に満足せず、さらに追及の矢を放った。
彼女のまなざしには、大英帝国の威信を守ろうとする強い意志が宿っていた。幾多の危機を乗り越えてきた女王は、今回の失態を簡単に許すつもりはない。
女王は3年前の1861年に夫であるアルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)を亡くしており、失意の底にあった。それ以降は公務にも顔をださず、豪華な衣装は絶対に着なかったのだ。
彼女がこの行為に至ったのは、大英帝国の大失態に対する責任感の表れだったとも考えられる。事実、パーマストンとの面会後、女王は再び表舞台に立った。
「予期せぬ事態とは、具体的にどんな事ですか? 朕には、戦争の発端となった事件をわが国が引き起こしたと疑われている、と聞いております」
政治生命がかかっているこの質問に、どう答えるべきか。パーマストンが頭の中で言葉を選び抜いている間も、女王の鋭い視線が彼を射抜いていた。
「陛下、確かに一部ではそのような噂が流れています。しかしそれは事実無根であり、わが国が意図的に事件を起こした事実は一切ありません」
女王の表情は一層厳しさを増した。
「事実の解明も必要でしょう。もちろんやらなければなりません。しかしその前に、失墜した帝国の威信をどうやって取り戻すか、その算段はあるのでしょうね?」
「もちろんでございます。その件は……」
その後もしばらくパーマストンとヴィクトリアの会談は続いたが、パーマストンは生きた心地がしなかった。
■イギリス議会
「首相! これはもう、何を言っても始まりません。まず総辞職! 潔く総辞職して責任をとり、次の政権にこの帝国の未来を委ねるべきではありませんか? どうお考えですか?」
保守党のエドワード・ヘンリー・スタンリー(第14代ダービー伯爵)は連日報道される複数の新聞記事を手に取って、声高に叫んでいる。
パーマストンは議場の喧騒を前に立ち、背筋を伸ばした。
「ダービー卿、ご指摘の事態が重大であることは十分認識しております。しかし、現時点で総辞職は考えておりません。わが国の外交政策の継続性を保つことが、今は最も重要だと考えております」
「だからあなた方にはもう任せられないと言っているんです! 失策! 失策! 失策! 僅差で可決したとはいえ、賛成とほぼ同数の反対があったのです。それを押し切って開戦したあげく、全ての艦艇を失い、いったいわが大英帝国は何を得たのですか! 国民はあなたを、あなたの政権をこのまま許すとお思いですか!」
ダービーは追及の手を緩めない。生麦事件の疑惑と今回の惨敗。そしてインドから清国へとつづく、強硬な軍事力による領土拡大。そのすべてのツケがまわってきたのではないか?
そう言いたげである。
もちろん因果関係はない。しかし状況が悪化すれば、無関係な事柄が無理やり結びつけられることは往々にしてある。
パーマストンは議員たちの激しい議論の渦中にあって、冷静さを保とうと努めた。政治生命が惜しくないといえば嘘になるが、それでも政治的な空白を生むわけにはいかない。
それに保守党に政権が移ってしまえば、日本に対して大幅な譲歩をするかもしれない。
予想外の展開となれば収拾がつかなくなるし、事の発端から一部始終を把握している者が政権を握っていなければならないのだ。
「ダービー卿、確かに我々は予期せぬ事態に直面しております。しかし、この危機こそ冷静な判断と継続的な外交努力が必要な時なのです」
パーマストンの言葉に、議場からは不満の声が上がった。ダービーはさらに攻勢を強める。
「冷静な判断ですって? Namamugi Incident(生麦事件)から始まり、今回の惨敗まで、あなたの判断の誤りが帝国を危機に陥れたのです。インドや清国では結果的に成功しましたが、まかり間違えば同じ事態になっていたとは考えないのですか?」
……考えない。
考えるはずがない。極東の島国にこれほどの文明を持つ国が存在し、情報力・軍事力・技術力で大英帝国を上回る国などあろうはずがないのだ。
少なくともパーマストンはそう考えていた。
インドや清国ならば、なおさらである。
パーマストンは自身の政治信念と現実の狭間で葛藤していた。頭の中ではこれまでの外交政策の正当性と、今回の失敗の責任が激しくぶつかり合っていたのだ。
「ダービー卿、わが国の外交政策は常に国益を第一に考えて進めてまいりました。インドや清国での成功は、その証左です。日本での事態は確かに予想外でしたが、これは現地の政治的混乱に起因する不可避な事態です」
パーマストンの言葉に議場の空気が微妙に変化したが、ダービーは譲らなかった。
「複雑な情勢とおっしゃいますが、それを理解できなかったのは首相の責任ではありませんか? 生麦事件の真相も明らかにされていない。わが国の関与が疑われているのです」
パーマストンは揚げ足取りを防ぐため、慎重に言葉を選びながら反論する。
「生麦事件は現在調査中です。わが国が意図的に事件を引き起こしたとの噂は全くの事実無根です」
「調査中とは便利な言葉ですね。では、具体的にどのように調査しているのですか? 国民は真相を知る権利があります」
冷笑を浮かべるダービーに対してパーマストンは苦しい表情を浮かべながらも、最後の反論を試みた。
「現地の情報収集には時間がかかります。しかし、我々は既に日本政府との交渉を再開し、失われた信頼の回復に努めております」
交渉を再開し……などしていない。
完全に嘘である。そば屋の出前の『今どこ』理論とでも言えばいいのだろうか。
ダービーは最後の一撃を放った。
「首相、帝国の威信は地に落ち、多くの将兵の命が失われました。この責任を取るのは当然ではありませんか?」
パーマストンは沈黙した。
自分の政治生命と大英帝国の威信がこの瞬間にかかっていることを痛感し、また議場全体が彼の返答を固唾をのんで待っていた。
■江戸 大村藩邸
-発 岩倉 宛 次郎蔵人
此度の戦勝、まことに重畳至極にて、朝廷にて昇進ならびに新たな官職に補任すべしとの論議起こりけり。-
-発 次郎蔵人 宛 中将様
真に有り難き仕儀なれど、此度の戦勝某一人の功に非ず。然らばただ一人昇進いたし新たに任官するは正道にあらざる也と存じ候-
次回予告 第341話 『琉球とオランダと叙位任官』