むかしのやつ1
あーあー、退屈だ。退屈に殺されてしまいそうになる。まぁ厳密に言えば全く暇ではないしやらなきゃいけないこともそれはもう沢山存在しているのだけど。そう言う話ではなくて、退屈なのだ。如何せん、大学生という身分だとできることも少なかったりする。面白いことを探せない私が悪いんですかーとか思うこともなきにしも…とはなりつつ結局退屈だなぁと言うことで退屈をしのぎ続けているのがここ2.3年…だろうか。特にノルマがあるわけでもないしやり甲斐があるわけでもないバイトも気づけば古参になっていたり、そこそこ通っていたサークルも一つ下の世代の子がこの前引退したり、どんどん楽しいことが減って社会人になろうとしている。むしろ社会人になった方が退屈しないのだろうかとかも思うが、この感覚は自分の肩書きが変わるたんびに裏切られてきた。
結局、退屈で暇なのだ。
「面白さ」への価値基準がどうしても人とずれているかもしれないことは大いに理解しているつもりだが、それにしてもある程度の面白い人も面白いこともしてしまったせいなのかなんなのか。これが年をとるということであるなら、やはり歳はとりたくなかったなと。でも楽しそうな同世代もいる…ぐぬ。
昨日だか今日に後輩とお話ししていて、「小中高生の時ってなんでもないことでずーっと笑ってられたよねぇ」という発言が出た。あぁ、そういえばそうだったなと遠い昔のことのように思い出すけれど、なんで楽しかったのか、なんで笑っていたのかはもう思い出せない。思い出なんてそんなものかしらん。笑い方は覚えたのに爆笑、みたいなことは本当になくなってしまった。微笑みはうまくなったのに全身で笑うことなんて、もう年に数回というレベルではないかという気さえ、する。これは哀しむべき事実なのか愛しい我が成長なのか、考えるけれどわからないしわかることもなさそうだなぁと思う。
その点で言えば、どうでもいいことっていうのも増えた。きっとどうでもよくないことも山の様にあったし、拘りだってそうだ。拘れなくなった、執着できなくなった。怯えから来る防衛としての感覚の変化であるのだとしたら、私は一体何に怯えているのだろう。何を恐ろしいと思っているのだろう。そして、そのきっかけは一体なんだったんだろう。そんなことをつらつらと考えて、結局そんなこともどうでもよくなって、振り出しに戻る。そこになんとなくの虚しさとか寂しさみたいなものを感じていることは間違いないのだけど、そいつらをどう扱っていいか分からないし、つまるところまた堂々巡りである。
ここまで書いたけど、きっとどうでもいいは嘘だなぁ。どっちでもいいことが多い、の方が近い気がする。二者択一の「どっち」っていうんじゃなくて、んーなんだろ。自分以外のことに責任なんて持てないよ、という意味のどっちでもいい。逃げなのかなぁ傲慢なのかなぁ、そうは思うけれどそう思わない人のことがむしろ分からなくて困る。だって、他人と癒着なんてできないよ。怖いもの。人は死ぬときはいつだってひとりだよ、まぁそこ迄極端な話ではないのだろうけども、ね。情を抱くことも、その強さも楽さも知っているよ。それでもそれだって、いつでも次の瞬間に相手が目の前で死ぬかもしれない私を嫌うかもしれないサヨナラかもしれない、全部考えたらさぁ、無理じゃんね。そんなことを背負うくらいならば1人で生きていた方が寂しくて苦しくて目眩がする時もあるかもしれないけど、マシ、なんだもの。たとえ何十年連れ添ったって一緒にいたって人はいなくなるんだよ。怖いものは怖い、それだけの話で、結局そんなことを考えている自分のことが一等好きなんだろうなぁ私。難儀ねぇ。
そんな私がどうして恋人を2人持っているのかも、よくわかんない話だ。持っている、という言い方は少し失礼かなぁ、ごめんね。その立場に2人を置いている、の方がきっと正しい。片方はもういいんだけど、もう片方は希望的観測だったし今でも希望は持っている。でも、なんかダメそうだなぁって。好きになろうと思ったし好きだったし別になんでもよかったんだけど、結局好きな人がいるときにしんどいからって、だめだねぇってなってるのが今。これも嘘に変わるのだろうか。恋人にパッケージングするなら、私はあの子がいいって明確に最近思うよ。なんて、ね。
2.3年前に書いたらしい文章が出てきたので供養しておく。あの子って誰だろう。