雑話
月1か2くらいでやってくるなんとなくさみしい時間。前後にしんどいことがあったとかではなく、むしろ楽しいことが続くと発生するタイプのさみしさ。それが今おもむろにやってきてしまったので、文章を書くことにする。
いろんな人に会ってさみしくなる現象、久しぶりだなと思った。1人がわかりやすくなるというか、1人ではない時間が増えることは孤独を増幅させるんだろう。生活水準を下げるのは難しいというアレに似ている気もする。人といることが当たり前になってしまうと、1人で寝るのさえなんとなく難しいことになるし、「誰もいない」という至極当然なことに酷く狼狽えたりしんどさを感じたりする。人間ってとても単純で脆くてどうしょもないわね。
これだから楽しい時間はずっと苦手だ。昔ほど忌み嫌うものではなくなったけど、付き合うのがうまくなっただけで相変わらず享受はできていない。遺書みたいなものを書き始めた10年前、もしかしたらもっと前からかも知れない。わたしの中の臆病な部分はずっと震えたまんま。隠すのもやり過ごすのもできるようになったのに、どうしても消すことはできないししたくないんだろうと思う。楽しい時間を楽しかったで終わらせるためにいろんな手段を持つようになったのになぁ。
酔ったまんま寝て仕舞えば、勝手に明日が来てさみしさをみる必要がないもん。理性がふやけていつもより早足で来てくれる眠気に身を任せれば、目蓋の裏にチラつく怯えたわたしのことを見ずに済むし。
でもなんとなく今日はお酒を飲む気分ではなかった。ただそれだけなのに、こんなにも明確にさみしいと思っている。久し振りに触れる生身の自分は思った通りの形をしていて、ちょっと安心。かわいそうでかわいくて救いようのない、わたしの愛の対象。そういえば、また誕生日がやってくるのも関係しているのかも知れないわね。あぁ、さみしい。こういう時に紛らわす手段なんていくつも思いつくけど、どれもめんどくさかったりできなかったり、したくなかったりして、これもまぁ成長なのかしら…と考えて慰める。
酔ってなきゃできない連絡に価値はあるのかしら、とか、連絡とって良い悪い、とか、いろんなことを考えて、無駄だなと思ってやめる。自分がしたいかしたくないかしかそこにはないし、忖度しなきゃいけないならそれはそれまでだし、できなかった自分が悪いわけでもなくて、ぜーんぶタイミングと気分でしょ?って切り捨てられるようになっちゃった。今もこうして文章に起こしているだけで、さみしさは薄まった気になれる。
「強くなれた?」「そうね」
「優しくなれた?」「どうだろう」
「幸せになれた?」「なりたい気がする」
上手に夜を超えるために、目を閉じて羊を数えることにしましょう。