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サディスティック・ドリーム
そう言えばアイツ結婚したってさ。
ああ、そうなんや。
喫茶店で友人がつぶやいたとき、僕は平然と返せた、はずだ。
結婚したのは僕の高校時代のクラスメイトだった。
顔が小さくて美人だった彼女は、高校を卒業したら東京で舞台女優になるんだと言っていた。
周りの友人に対して臆面もなくそう言える彼女の様子からは、自分の未来に何の疑問も持ってないことが伝わってきた。
事実、彼女は卒業と同時に上京し、本当に舞台女優の道を歩み始めた。
あらかじめ言っておきたいんだけど、僕は彼女に恋心なんて抱いていなかった。
そりゃまあ美人だったから付き合えたら良いなとは思っていたけど、それはクラスの男子全員が思っていたことで、僕だけじゃない。
むしろ、僕が彼女に抱いていたのは嫉妬だった。
何の臆面もなく夢を語れるほどの才能と自信を兼ね備えた彼女に対する、どうしようもない嫉妬心だった。
数年経って、彼女が出演した舞台が雑誌に掲載されたとき、僕は本屋でおそるおそるそれを開いた。
「新進気鋭」という使い古された表現で評されたその舞台は、別段面白そうではなかったけれど、東京で活躍していることは伝わってきた。
何の変哲もない大学生だった僕にとって、彼女の活躍は眩しすぎた。
そんな彼女も二十代後半になって結婚した。
女優の道を諦めたのだ。
「アイツ才能ありそうやったのに、東京ってやっぱすごいんやな」
喫茶店の革張りのソファにもたれながら、コーヒーを口に運んだ。
日常生活に埋もれて沈殿していた粘ついた感情が心の中に舞い上がるのを感じた。
才能ある他人が夢を諦めたことで安心するという最も醜い負の感情だった。
オーダースーツの店をつくると言って転職した同期も、野球でプロになると言っていた同級生も、そして舞台女優になった彼女も、みんな夢を諦めた。
きっと彼らは夢を諦めるまでに、心を裂かれるような想いをしたのに違いない。
血の通った柔らかい心の表面に、ひび割れた夢の欠片は容赦なく突き刺さったはずだ。
僕はそれが怖くて、まだ夢を諦めきれないでいる。
心に占める希望の割合と卑屈な感情の割合は年々逆転していくけど、いつか僕は物書きになりたい。