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人生で最も感動した文章
正確に数えたことはないが、今まで千五百冊くらいは小説を読んできたと思う。
別に数が多ければ良いわけではないし、内容を理解できずに読んだものもあるので特に意味はないのだが、ふと、これまで読んだ中で最も感動した文章は何だろうと思った。
あれやこれやと色々な文章が頭に浮かんだが、一番かと言われるとどれもいまいち納得できない。
しばらく考えた末に、ある小説の一節が頭に甦った。
本棚に走って文庫本の列を目で追っていると、あった。
私はその小説を取り出し、改めて読んでみた。
そしてその一節が来た時、何度も読み返した文章のはずなのに、軽い身震いと共に涙を流した。
間違いなくこれが私の読書遍歴で一番感動した文章だと思った。
三浦哲郎(敬称略)の「忍ぶ川」という作品に出てくる一節である。
三浦哲郎は1931年生まれで、青森県出身の作家だ。
芥川賞や川端康成文学賞、野間文芸賞など、数々の賞を総なめにした作家であり、1984年から2003年まで芥川賞の選考委員を務めた。
「忍ぶ川」は、三浦自身が芥川賞を受賞し、世に出るきっかけとなった作品である。
「忍ぶ川」は、主人公の男子学生と東京下町の小料理屋の娘が、結婚して初夜を迎えるまでの短編小説だ。
男子学生は六人兄妹の末っ子として生まれたが、二人の兄が蒸発し、二人の姉が自殺、弱視の姉と自分だけが生きているという壮絶な境遇の下にある。父は、二人目の兄が蒸発した時に脳溢血で倒れてしまい、後遺症を患っている。
また、女子学生の方も困窮した家庭で育ち、自分の生い立ちに恥を抱いているという設定だ。
この男女の設定は、三浦哲郎本人と妻徳子の生い立ちに限りなく近い。
三浦本人も六人兄弟の末っ子として生まれ、二人の兄が失踪し、二人の姉が自殺した。
妻と出会ったのも、小説と同じく、通っていた早稲田大学の寮に程近い料亭である。
いわば三浦の自伝小説とも言える「忍ぶ川」の中で、私が心を動かされたのはその終盤、男子学生の実家で二人が身内だけのささやかな結婚式を挙げるシーンである。
人前で歌うことなどなかった主人公の父が、めでたい席だからと能楽の「高砂」を歌おうとする。脳溢血のため不自由になった右手をぶるぶる振るわせながら下手な歌を披露する父を、主人公の母と一人残った姉が必死に止めようとする際の一節である。
「私は、ちいさく争う三人を、ただだまって見ていた。うちつづく子らの背信には静かに耐え得た父母も、こんなささやかなよろこびにはかくも他愛なく取り乱すのである。私は、そうしてもつれあう三人の、はじめて味わう愉悦を想い、ふいに声をはなって泣きたいような衝動にかられた」
子どもの逐電や自殺、狭い集落の中での心無い噂、息子が残した借金の世話など、父母が経験した言葉にできないほどの悲しみと、老齢になって初めて味わった親としての喜び、兄弟の業を背負って生きてきた主人公が、両親に親としての喜びを与えることができた感慨。
三浦哲郎本人の魂の叫びが詰まっていると思った。
そして、いつか自分もこんな文章を書いてみたいと思った。
みなさんも忘れられない一節があれば、ぜひ教えてください。