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皇居に眠る鳳凰

 前回、甲斐荘楠音の絵を観に行こうとして、あまりの禍々しさにそれが叶わなかったということを書いた。
 せっかくなので、今度はそれと反対に、あまりの神聖さに畏敬の念を抱いた絵のことを書いておきたい。

 2024年のゴールデンウィーク直前、全く仕事のやる気が出なかった私は、打合せに行くと言って会社を出た後、日比谷駅から大手町方面に向かって散歩していた。
 日比谷駅、二重橋駅、大手町駅という3つの駅の間は、散歩にはもってこいのコースだ。
 大量の車が往来する日比谷通りを挟んで、東側には空高くまでビルが並んでいる。
 オフィスビルに混ざって、帝国ホテルや日生劇場、東京會舘といった由緒ある建物が並んでいるところがお気に入りだ。無機質なビルの中に、巨大な十字形のホテルや薄紅色の万成石の劇場が並んでいる姿に情緒を感じる。
 そして日比谷通りの反対、西側には皇居のお堀と石垣がどこまでも続いている。
 蔓やコケといった植物に柔らかく浸食された石垣は、自然と共生しているようで皇室のイメージにピッタリだと思う。
 オフィスビルと城跡が道を挟んで隣り合っている景色はやはり物珍しいらしく、外国人観光客があちこちで写真を撮っている。
 関西出身である私にとっても、この日比谷通りを歩いている時がもっとも東京にいる実感の湧く瞬間かもしれない。

 雲がとぎれとぎれに浮かぶ青空の下、私は音楽を聴きながら皇居に沿って歩いていた。
 何か面白いものでもないかとスマホで検索していると、皇居三の丸尚蔵館で開館記念の展覧会をしていることがわかった。
 「皇室のみやび」と銘打たれたその展覧会は数ヶ月ごとに展示品を変えていて、その時はちょうど第3期の「近世の御所を飾った品々」というテーマだった。
 何か目的があって散歩しているわけではないし、せっかくなので行ってみようと思った。
 早くもTシャツ姿となっている外国人観光客に混ざって、私も大手門の手荷物検査を受ける。
 アジア系、白人、黒人など、様々な人が楽しげに会話しながら並んでいる。
 オーバーツーリズムが問題となって久しいけれど、異国の人々が日本を満喫してくれている姿を見るのは嫌いじゃない。

 手荷物検査が終わって見上げるほど大きな門をいくつかくぐると、三の丸尚蔵館はすぐに見つけることができた。
 外の喧騒とは打って変わって、潜めた声と靴音だけが響く静謐な空間になる。
 薄暗い展示室の中、屏風や硯箱、棚などの芸術品がガラス越しに鎮座していた。
 どの作品も細部まで一部の隙もなく金箔や漆喰が塗られていて、職人の想いや信念がひしひしと伝わってきた。
 文章を書いていてよく思うのは、細部までこだわることの難しさである。
 ある程度良いと思う文章を書いたら満足してしまうところが自分の弱さだと感じる。その甘えの部分が、らしいものは書けても魂の入った本物の文章を書けない所以ではないかと反省している。
 ここの作品は弱さや甘えなど感じさせる隙もなくさすがだと思いながら何気なく目を向けた一枚の絵に、私は一瞬で引き込まれた。

 それは明の時代の中国から伝わってきた「百鳥図」だった。
 鶴や雉、鴨など多種多様な鳥が群集している中央で、つがいの鳳凰が天を見て鳴いている絵だ。
 背景には竹や梅が描かれ、鳳凰の足元には百花の王である牡丹の花が描かれている。
 それぞれの鳥が写実的に描かれているため、存在しない鳳凰も現実に存在するかのように感じる。
 私が心を奪われたのは、その構図もさることながら、特にオスの鳳凰の目だった。
 生き物の王として君臨するに相応しい、全てを見通すような、善も悪もないまっすぐな目だった。
 逆に私自身がその鳳凰に見られているような、人として品定めされているような感覚になった。
 他の展示品も観覧客もない、鳳凰と自分だけの空間がしばらく続いた後、ふっと我に返り、少し呆けた様子で尚蔵館を後にした。
 皇居の砂利を革靴で踏みしめながら見上げると、空は鮮やかすぎるほどに青だった。

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