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(短編小説)「交代脳内」
廊下には明かりがなく、手元さえ視認できない。
唯一の光は、少し先の扉の小窓から差し込む光だけだ。
斜めに差し込む光の中で、舞い上がった埃の欠片たちが複雑な模様を描きながら、また暗闇に消えていく。
なぜ自分がこんな場所に立っているのか、頭を働かせたが全く思い出せない。
眠りの淵から降りきっていないようなぼんやりとした気分のまま歩き出すと、靴の端に何かが当たった。
空気の抜けるこもった音は段ボールのそれで、確かめるようにもう一度蹴ると、箱の中にある物体の質量が足先に伝わってきた。
暗がりの中には、段ボールがいくつも無造作に積まれているようだった。
そのうちの一つを開けようとして蓋に触れた時、隙間から微かに肉の腐ったようなにおいがして、私は慌てて閉めた。
早くこの場所から出なきゃ。
唐突に沸き起こった焦りは、悪寒となって瞬く間に身体中に広がり、全身が総毛立った。
なぜ自分がここにいるのか、ここはどこなのか、思い出せないままだったが、一刻も早く廊下を抜けなくてはと思った。
早く、早く。
遅れたら後ろから捕まえられるんじゃないかというような、絶対的な恐怖が脚を震えさせた。
さほどの距離ではなかったはずなのに、扉まで辿り着いた時には焦りと疲れで息が上がっていた。
震える指先に力をこめて冷たい金属質のドアを開けると、廊下に一気に光が差し込んできた。
ホワイトアウトした視界に、少しずつ景色が戻ってくる。そこは取調室のような殺風景な部屋だった。
白いリノリウムのタイルの床に、スチールの机と二脚のパイプ椅子が置かれている。
奥の椅子には四十代くらいの日に焼けた坊主頭の男が座っていて、こちらを見て笑っていた。胸元や膝が汚れた野球のユニフォームを着ていた。
「おつかれさん、よう来たね」
そう言うと、男は空いている椅子を顎で指して座るよう私を促した。
ためらっていると、「早う座ったらええやんか」とさらに促されて、私はそのまま椅子に腰を下ろした。
机を挟んで男と向かい合う。
状況が飲み込めず、何を話せば良いのかもわからなかった。ここはどこで、私は誰なのか。
「何もわからへんやろ?」
私の様子を見透かしたように訊いてきた。
「わからないです。ここはどこですか」
「俺も最初に来た時はそうやってん。何もわからんと警戒したわ。ちょっとずつ慣れるから大丈夫やで」
「慣れる?」
「そう、今日から君はここで生活する」
「こんな何もないところでですか」
「でも別に帰るところもないやろ」
男は涼しい顔でそう答えると、机の引き出しから紙を一枚出して私に見えるように置いた。
紙には、引き伸ばされた画像が印刷されていて、目の前の男とは違う別の男が写っていた。
二十代半ばに見えるその男は、白いワイシャツを着て髪を七三分けにしていた。
まだ社会に出たばかりという印象だったが、それ以外に取り留めて特徴はない。どこにでもいる若い男という印象だった。
画像の下には『野球』『小説』と書かれた二つの四角いチェック欄があって、野球の方はもうすでにペンで丸印がつけられていた。
「これ何ですか」
「これが俺らの正体や。まあ、いきなり言われても困るか。俺も自分が引き継ぎされる時は困惑したしな」
男は笑いながら、人差し指で紙をコツコツと叩いた。
「俺らはな、この男の想いやねん」
男の言っていることを飲み込めずにいると、彼はあまり気にする様子もなく続けた。
「ちなみに俺はね、コイツが野球にかける想いやねん。コイツは中学の頃から大学までずっと野球をやってた。その野球への強い想いが俺やねん。そして、この部屋はコイツの心の中。俺がまだここにいるってことは、コイツが野球への情熱を捨てていない証拠」
「何を言ってるのかサッパリ分からないですよ」
私は少し苛立って答えた。
周りを見回しても、白い壁に囲まれた無機質な部屋はどこかの控え室といった印象しか与えない。ここが人間の心の中だなんてありえないし、そもそもが突拍子もない話だ。
「ただ、それが真実やからなあ」
「もしそうなら、なんで私はここに来たんですか」
「コイツは大学までずっと野球に打ち込んでたんやけど、三年前に社会人になった。それからは昔ほど野球に熱が入らなくなって、飲み会とかナンパにうつつ抜かしてた。でも、どれもこれも本気になられへんかった。所詮遊びやからな。さっき廊下に荷物が散らかってたやろ。あれはコイツが遊びにかけた想いの残骸や。どれもこれも部屋に入れるほど強い想いになられへんかったから廊下に転がってる」
私は、廊下で段ボールに触れた時の腐敗臭を思い出した。
「あの段ボールには何が入ってるんですか」
「だから言ったやろ。コイツが熱中しかけた想いの残骸。俺らみたいに心から熱中したことはしっかりした人の形になるけど、中途半端だったり、すぐ飽きたりするやつは、人になる前の段階で止まってそれ以上成長できへんねん」
男は手首から先をだらりと下げて白目を剥いて、おどけてみせた。
「幽霊でも入ってるんですか」
「まあ、幽霊っていうか、人の形になれてない脂肪の塊みたいなんがゴロゴロ入ってる。定期的に掃除せなあかんねん。めんどくさい」
箱に腐敗した肉片が入っていたかと思うと、少し身震いがした。
「それを証明することは?」
「部屋から出て、実際に段ボール開いて見てみたらって言いたんやけど、それは出来ないな」
「なんでですか?」
「君がまだ出来たてやからや。この部屋に入れるレベルになったけど、今はまだ不完全。さっき廊下にいた時、ちょっとでも早くこの部屋に入ろうと思ったやろ。あの廊下にいたら、他の連中と同じようにいずれ忘れられてしまうからな」
「そんなこと……」
男の話はあいかわらず突拍子もない話で、どうしても信じる気にはなれなかった。
しかし、廊下で感じた悪寒はたしかに私の存在そのものを脅かす何かに対するものだった。
ふんと鼻を鳴らして、男は椅子の背もたれに体重をあずけた。パイプ椅子が軋んだ音を立てる。
「俺の話が信じられないなら、実際に廊下に行って試してくれてもええんやで。もしそれで君が消えてくれたら、俺はまだここにいられるかもしれんしな」
私は椅子に座ったまま後ろの扉を振り返った。
小窓の向こうには、さっき光が差し込んでいたのとは対照的に、何もない暗闇が広がっていた。
ぽっかりと空いた無機質な暗闇の中にさっきまで自分がいたと思うと恐ろしくなった。
「すいません。あそこには行けないです」
「本能が嫌がる感じがするやろ。まあわかってくれたらええねん。ほんなら、ようやく引き継ぎやな」
『小説』のチェック欄を指差しながら、男はボールペンを渡してきた。
「ここにサインちょうだい。そしたらいよいよ野球から小説、つまり俺から君にコイツの心は切り替わる」
「もしそうだとして、私がここにいることになったら、あなたはどうなるんですか」
「そりゃいなくなるんやろ。本気で熱中できるもんなんて同時に何個もあるわけじゃないしな。でも、それも仕方ない話や。コイツは野球では思うように結果残されへんかった。社会人になって、その未練に踏ん切りついた頃なんやろ。薄々感じてたわ」
「あなたはこのまま消えてしまっても良いんですか」
男の顔が強張り、今まで顔に浮かんでいた余裕の表情がなくなった。
「そりゃ悔しいよ。10年以上一緒にやってきて、コイツには愛着がわいてるからな。寒い日に素振りした時も、雨の中ランニングした時も、地区大会の一回戦とはいえホームラン打った時も、ずっと一緒にいたんや。悔しい想いも嬉しい想いも全部一緒に味わってきたんやから、本音を言えば寂しいよ。でもな、小説を書きたいって想いがひしひし伝わってくるねん。ずっと一緒にいたらわかる。次のステップに進むときや」
紙に写った男の写真を見ながら、目を細めてそう言った。
あらためて見ると、男が着ているユニフォームは薄汚れていて、これまでの月日が長かったことが伝わってきた。
「引き継ぐ前に一つだけ約束してくれ。コイツは打たれ弱いから、挫折しようとする時があると思うけど、お前だけはコイツを支えたってほしい。間違ってもお前の側から見捨てるなんてことはしてくれるなよ」
男の真剣な顔をして言ってきた。
私は頷いてペンを受け取った。
「まだ信じきれていないのが正直なところなんですけど、ここにチェックをしたら入れ替わるんですね」
「そうや。10年以上続いたコイツの野球人生が終わって、物書きとしての人生が始まる」
私と入れ替わりで目の前の男が消えるかもしれないと思うと、あまり彼を直視することができなかった。
俯きがちに紙を自分の手元に引き寄せると、自分とは違う別の感情が心に流れ込んでくるのを感じた。
「人の声が聞こえる」
「それはコイツの声や。引き継ぎももうすぐ終了やからな、いよいよ一心同体になるんやで。もう俺にはコイツの声は聞こえへんくなってもうた」
私はそっと目を閉じて、心に流れ込んでくる声に耳を傾けた。
懐かしいような、緊張しているような、色々な感情がマーブル模様を描いて心に広がっていく気がした。
意識の外から次々に入ってきては、移り変わっていくその感情は、たしかに私ではない別の誰かの感情だった。
「最後に一つだけ良いですか」
「おう、何でも聞いてくれ」
「この人はあなたに感謝してると思います。大きな結果を残すことはできなかったけど、それでもずっと続けた野球に対して、心の底から感謝してると思います。今私にそれが伝わってきました」
男は目を丸くした後、大きな声で笑って机の写真を見た。
「そうかそうか、そりゃ嬉しいな。ずっと二人三脚で頑張ってきたんや。俺もコイツには感謝してる。もっと前に進んで欲しいと思ってる。だから兄ちゃん、コイツのこと頼んだで」
「はい、わかりました」
私は一度大きく深呼吸をした後、手元の紙に目を落とし、チェック欄に印をつけた。
「引き継ぎありがとうございました」
そう言って顔を上げると、もうそこに男はいなかった。