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翁の眼福

京都では、正月も過ぎてしばらくすると、十日戎の賑わいが、何処にいても伝わってくる。えべっさんの福々しい姿のお菓子やお守りが目に浮かぶ。なにより昔から、私はえびす顔の人が好きだ。

あるとき、福の神のお顔を描いていると、とても心地良い気持ちに満たされた。筆を走らせながら、自分の顔もほころんでいたに違いない。なおいっそうのこと、えびす顔の人との出会いを楽しみに思うようになった。

これまで出会った中でも印象深かった方に、能面を打つお師匠さんがおられた。
その方の能面と対峙したとき、気迫に満ちた表情に御霊が宿るようで、畏敬の念さえ抱いた。お師匠さんご自身のお顔は、とても穏やかだった。その苦悩や厳しさを飲み込んで昇華したように、静かな品のある笑みをこぼされていた。
その方のお顔をひそかに拝んで、そうか、この達観した生の福顔に翁が宿るのかと自分の中で合点がいった。

私の理想とする翁顔をなんとか言葉にするならば、福の神が降臨したといえば大袈裟かもしれないが、お年を召した皺にその生き様が刻まれ、一眼で拝みたくなる笑顔を湛えておられるのだ。顔貌はまるで違っていても、人相には共通して気品が宿っている。
たとえ探したとしても、なかなか出会えないのだけれど、ふいに出会えたときには、嬉しく有難い気持ちになるのだ。

そもそも、この原点の記憶を辿ってみると松尾大社に至る。巫女として奉仕していた際、毎日の朝拝後に廊下の階段を降りたところで、頭上に古い翁面が飾られていた。後に聞いたところによると、古くは祭事の神輿に依代として祀られていたとのことで、松尾に伝わる平安時代の御神像のなかに、その時代には珍しいという、満面の笑みを湛えた男神像があり、それこそ翁面の元になったとの謂れがあるとのことだった。

その後も、いろんな場所で、翁顔をした御老人にふいに出会う機会に恵まれた。
それぞれに歩んで来られた人生を知る由もなく、穏やかな笑みを湛えておられる御姿に、いつも心の中で感謝を捧げている。


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