自己紹介と、障害と、リアルゼミにいるわけと、自分自身に対する逡巡
挨拶
こんにちは。ここでは檸檬と名乗ります。ゼミでは会計や裏方仕事のイメージの人で、運営まで係わりながら、このゼミで意見を出して積極的に行動するようなことをあまりしない人です(それでいいのか)。
なぜそんな自分がしかもやりがいの弱そうな裏方の仕事を請け負って参加し続けているのか。ふらっと来る受講生としてでなく運営なのか。自分でもちゃんと考えないとなかなかわからないことであって(ちゃんと考えてもわかるのか知らないが)。そんな中でこうやって一人ひとり記事を書くことになったので、特に主張したい事柄もない僕は、なんでこのゼミに自分がいるのだろうかということに対する逡巡をそのまま書こうと思います。せっかくだから読んでもらって面白い文章になることを願いつつ。
自己紹介
何を書くか定めたところで、逡巡の前に僕がどんな人なのかをざっと。それ用のブロックをひとつ。
もともと中学段階の修学旅行で2,3日訪れたっきり、オープンキャンパスと受験日しか来なかったほど京都とは縁のなかった人で、京都に来た理由も“なんとなく京都みたいな町に少し住んでみたかったから”という適当さ。ここからして自分の性格の適当? おおらか? な感じは伝わるか...。
このゼミに入ったのも、前代表がこのゼミを立ち上げたいというのをある講義に宣伝に来た時、おもしろそうと思って乗ってみたというこれまたなきっかけ。その講義自体もパラパラめくったシラバスでふと目に留まった面白そうなやつ、みたいな出会い方でした。何もかも意図せずな感じがすごい。
その講義は“障害”がテーマのものでしたが、シラバスを見てなぜ僕がそれを面白そうと思ったのか、もう思い出せません。今度確かその時一緒にシラバスを見ていた母親に聞いてみようか。絶対に母親も何も覚えていないと思うが。
“障害”に接点があったわけでもないんですよね。家族や身近な友人に障害が、とかもなく、親の職場が…みたいなのもなく。
僕自身が誰かと特別に仲がいいというより、周りのみーんなとそれなりに仲いいみたいな子だったのもあってか、クラスのいわゆる支援学級にいる子とも普通に接してたというぐらいで。僕にとっての支援学級の彼はちょっと面白い子ってぐらいだったんですけど、彼からしたら僕は特別仲いい子だったんですかね。向こうがどう思ってたのかはわかりません。ほかの子よりは身近だったのかな。
僕自身が周りから見て浮いているような、飄々としているような、そんな子だったらしいのもなにか関係しているかもしれません。自分では何とも思ってなかったんですが、両親曰く「飄々と」とか「ちょっと変」とかそんなだったと。それで面白かったとも。
ちょっと変って何がそうだったんでしょうか…。一人でブランコこぐ休み時間? 両親が見ていて思ったということから察すれば、友だち関係? みんなと仲良くは出来てましたからね、言葉や行動の節々とかに出てたんでしょうか。なんせ僕自身は気づいてませんから、詳しくはわかりませんが。
あとおまけで、趣味は読書とゲームと歌うこと、料理することも少し。音楽が好きで今は合唱団に(コロナのせいで活動中止中…)。大学以前はずっと野球をやっていて、今でも時々したくなりますね(近くにバッティングセンターとかなくてつらい)。ま、自己紹介はこんなで。
逡巡
はい、じゃなぜ僕がゼミで運営までしているのかについて、これが疑問なわけを整理しつつ列挙して、問題を明確にする試みから始めます。
第一に、自分は“障害”に接点がない。今まで20年弱生きてきて特になく、これからも意識的に機会を作らなければ接点がない可能性の方が高い。この接点のなさと“障害”への興味のことについて。
第二に、それが“障害”である意味について。自分としてはこれが他の社会問題(例えば貧困とか労働問題とか)であっても何も問題ないように思う。これが“障害”であったことに何か理由を見出せるかどうか。
第三に、自分が運営でなく受講生側だったらば、参加したのかがわからないということに関して。なぜ運営をやろうと思ったのか、あるいは運営と受講生の違いは何なのか。
この三点ぐらいで考えます。
面倒ですね…。自分の感覚をこれで論拠しきれる気もしないですが、もういいです。気軽にいきます。
“障害”って、どこか人を引き付ける力のある言葉ですかね? “障害”に関して接点がないとは言ったものの、本当に接点がなかったのかということは、自分一人の目線や視点しか知らないで生きてきた僕が理解できていることではない気はする。ただ周りにいたことに気付かなかっただけかもしれないから。接点という言い方はふさわしくないとも言えそう。
そうでなくても、今までの日常の中に“障害”があったのか、障害者がいたのかなんてことは、自覚できた範囲がすべてだと思って語ってはいけないことのようにも思う。見聞きすることは、認識や自覚でどうとでも変わるように思うし、目に入ることと見ているということ、耳に入ることと聴いているということの間には差があると思う。
接点がないと言い放った僕の言葉にはこの考察からすると違和感がある。障害に限ったことではないだろうが、ある事象を認識できてはじめて見えてくるものが接点だと思うし、認識できていないことを決めてかかってはいけないと感じた。
では、なぜ僕は“接点がない”と感じたのだろうか。“意識的に機会を作らなければ”、なんてさっきは書いた。意識的に機会を作ろうとしたときに、“障害”は比較的自分の中に入ってきやすいものではあると思う。周囲に気を配るだけで目に見える場合もあるからで、もちろんただ見た情報だけではわからないものもあるが。
とかいう考察、今ここでうだうだ書いているのは、どこかで見るような言説のようにも思う。それに自分の逡巡でも気づいただけである。そう思ったのでこの考察はやめる。
では何が(僕を)引き付けたのだろうか。僕自身が何にでも興味を持つのはあるが、障害というのが今身近にはなくとも将来身近になり得るものだというのはあろう。海外ボランティアとかじゃない理由は直接の還元が自分にあるかもというこの理由で説明できそうである。向こうから接点がやってくる可能性の高さ、自覚させられる働きが自然と起こる可能性の高さとでも言い換えられようか。
労働環境の問題とかでなかった理由は何だろう。将来働くならこれに接点はいやでも持つことになる。それを大学にいる間も考えるようなことを本能的に避けたんだろうか?
自分のモチベーションの一つに、障害という枠を通すことで物事に関して何か気付けることが増えるのではないかというのがある。視点を増やす、か。知らないことを知るというのはどれも視点を増やすことではあろうが。
例えば労働問題ならば、学生のいまだから得られるものには必ずしもならなさそうで、就職してから学ぶことと重なり得る。障害というのはこうやってゼミに入って意識的に関わりにいくから得られる視点にはなるのか。
なんの話をしていたのだろう。なんか第一と第二の点がごちゃごちゃ…。しかも第三の点に関しては考察がまだか。長い…、不必要に長い…。
運営と受講生の差異。自分の意思で参加を選択する面が強く、何かを学びに来る感覚が強くなるのが受講生か。逆に運営側ならば、自分が知るのと同様に来た人にも知ってもらうという意識が少なからずあろう。それだから宣伝と人集めとを頑張るのであって。
この区別だけで僕の思いは表せているのかもしれない。
運営として参加したいと強く思ったことはないが、講義を聞く感覚でここに参加したいと思ったこともない。ゼミを続けたいな、これが残っていったらいいなみたいな漠然とした思いがあり、視点を増やす的な意味も含めて今まで知らなかったことを知っておきたい思いがある。
受講生としてだったら参加していたのかどうかに関しては自信がないし、運営だから少し課題とか残ってても参加するというのが心の中にあるのかもしれない。無理するところまではいっていないが、無理しないレベルで詰め込もうとできる原動力はそのちょっとした義務感と言おうか、運営だから感にあるかもしれない。
後は単純にゼミの外で話ししたり関わったりというのが、参加者の立ち位置だったら僕はまずできないというのもある(他の講義はほとんどすべて一人なので…)。だから運営として関わったというか、運営だからつながりを持って参加できたというのはあるな。
それだから運営で参加したというよりは、おもしろそうだと思って参加していたら、運営を募集する感じだったからそれに参加して、でいろいろやっていたら他の講義とは違う感じになってつながりを持つ感じで楽しめてたから、そのまま続けている、という向きが正しい。
思い付きから始まって、偶然の結果がつながって、なんかよかったから運営を続けているということか。つまり、僕自身の中に第三の点に関しては答えはなく、このようなプロセスの結果、運営が僕の中に定着したといえそうである。
はい、逡巡おしまい。疲れた。結果なんでゼミに参加してるのか、結論は出してませんがもういいでしょう。もう相当長いですし、暫定的な答えしか出ずに考え続けないといけないやつなので(書き始める前からわかってましたが)。この考察としては、これで十分でしょう。ここまで読んだ人いるんでしょうか…。そんな方はここまでお付き合いいただきありがとうございました。駄文の長文失礼しました。
ええ、ここまで自己紹介の毎週投稿を行ってきましたが、いったんここでそれを終わります。まだ運営は何人かいるので、それもお楽しみに。
次回以降の投稿は日時は未定ですが、また記事は投稿します。いつか出します。よろしくお願いします。
記事が面白いと思ったら、無理のない範囲でのご寄付をいただけると幸いです。いただいたご寄付は今後の運営のため大切に使わせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。