京都工芸研究会ロング・インタビュー #002 片岡行雄さん(人形師・工人) 工人(こうじん)が人形に込める想い
京都工芸研究会では,ベテランの会員さんに工芸の仕事や今までのあゆみについてじっくりとお話を伺う「ロング・インタビュー」を連載しております。第二弾は,京人形師の片岡行雄(片岡光春人形司)さんをご自宅の工房に訪問し,人形制作に込める思いについてお話をうかがいました。
片岡さんは2003年~2014年まで工芸研究会の委員長として会をまとめてくださいました。2021年は,先代から数えて人形師100年の節目を迎え,展覧会も精力的に企画されております。
<片岡行雄さん ご略歴>
1934年 京都生まれ
京人形師・片岡光春のもとで人形作りを学ぶ。
1995年 京都府伝統産業優秀技術者(京の名工)
「京の名工展」に多数作品出品
2003(平成15)〜2014(平成26)年 (旧)京都工芸研究会委員長
2006(平成18)厚生労働大臣表彰(現代の名工)
編:すごい数の人形が並んでいて,壮観ですね。昨今の京人形界は,いかがですか?
片岡:現在の京人形界のことはあまり存じ上げませんが,コロナ禍の人形制作環境は,一般的に言ってあまり良くないと思います。ですがこの時こそ,京人形の本質をきわめる良い機会だと思います。うちは父が人形制作を始めて今年で100年なので記念展を開きたかったのですが,コロナ禍で実現できず,今年こそ皆様に京人形をご覧いただきたいと思っております。
編:片岡さんは,お父様の職業を継がれた二代目ですが,やはり「家業を継ぐ」という意識は昔ながらのものだったのでしょうか?
片岡:いえ,父からは家業を継げとは言われませんでしたし,僕も継ぐ気は無かったんです。納品の手伝いくらいはしていましたが,継ごうとは思っていませんでした。父から僕らの世代にかけては,戦後でもありましたし,封建的な社会から民主的に変わっていった時期なので,社会的な背景もあったのかと思います。僕は法律が好きで弁護士を志していた時期もあったのですが,ものづくりも好きで,彫刻家の村井次郎(*1)さんや京都市議会議長を務められていた山川常七(*2)さんなど,父と懇意だった著名な方々に応援していただいたこともあって,父が続けてきた人形制作を自分の代で無くしてしまうのは惜しいと思うようになりました。
編:弁護士を目指していたのですね。京人形づくりとはかなり違う業界で,大胆な進路変更に思えます。
片岡:僕が法律を好きなのは,平和や平等など,人間が幸福に生きるための根本があると思ったからです。戦争を経験したということもあると思います。方法は違いますが,僕は人形作りを通じて,平和な社会や人間の幸福を表現したいと思っています。
編:片岡さんの作品からは,戦争の恐ろしさや平和を愛する気持ちがダイレクトに伝わってくるような気がします。この作風は,初期から確立されていたのですか?
片岡:いえいえ,自分にとってまず第一だったのは「生活」でした。戦争を経験した者としては,なによりも生きることを考えるものです。僕は子どもの頃,市役所の近くに住んでいたのですが,戦時中は市役所からしょっちゅうサイレンが鳴って怖かったです。小学3年生のときには御所の敷地で軍隊行進の練習をさせられました。ただ歩くのではありません,まるで現在の北朝鮮の軍隊のような歩き方ですよ。10歳の頃には母の郷里の亀岡に疎開したのですが,人間関係にもなかなか馴染めず,大変つらい思いをしました。だからまず「生きていく」こと,これが一番です。
人形作りでも,五月人形やひな人形などの節句人形も多く作って,食べてゆくことに精一杯でした。一般の会社で言う定年の60歳を区切りに,人形は引退して,以前志していた法律をもう一度学び直したいと思っていたのですが,京都府から「京の名工」に選んでいただいたこともあって,そこから,独創的な人形作りを始めたのです。
僕にとって「独創的である」ということはとても大切なことです。それに僕は「職人」という言葉は好きではありません。今はどうかわかりませんが,昔の封建的価値観では「職人」というのは大切にされてこなかった。「職人=注文通りに作るだけの無名な人」と見られて,ものづくりに携わっているのに,名前が出ない。著作権もおざなりに扱われていて,不平等な社会構造がありました。かといって,自分は自己表現を中心とした「作家」という存在とも違うと感じる。だから僕は自分を,工芸を全うする者として「工人(こうじん)」と呼んでいます。
編:「工人」ですか。新しい表現ですが,しっくりくる響きですね。
片岡:そうです,僕は工人です。人形制作は着付師・頭師・手足師など細かな分業制で成り立っていますが,僕は「京人形の工人」として全てを自分で作りたいという夢を持って今日に至りましたが……しかし,難しいものです。商品と違って,工人のもの作りには完成が無いとつくづく思います。
編:「完成が無い」と言いますと?
片岡:常に満足していないんです。もっと良くなるんじゃないかと思う。だから現時点での作品を「良いね」と言ってもらおうとは思いません。「しょーもない」とも言ってほしくは無いですけど(笑)。「綺麗な顔ですね,美しい衣裳ですね」という感想は誰でも持ちます。でもそれだけではない「奥深さ」とでも言うのかな,人間性やあたたかみを表現したいと思っています。しかし難しいですね。人間の姿形をしているので,手足の向きが少しでも違うと印象が変わって見えてしまう。そのぶん,他の工芸分野よりもメッセージ性が強く出ると思います。
編:片岡さんは,京の名工展で自作の作品解説もされていました。名工の技術は簡単に真似のできるものではないと思いますが,片岡さんは技術の自慢はせずに「皆も人形作りをやってみましょう。楽しいですよ」と敷居を下げて語っておられたのが印象的でした。
片岡:僕は父親(先代)から何も教わらず,独力で作ってきました。だから皆さんにもできるよ,独創って楽しいよ,そういった「ものづくりの原点」をお伝えしたいと思うのです。
編:戦争という厳しい時代を経ても,人形作りも含め伝統工芸が失われなかったことについて,どう思われますか?
片:戦時中のいわゆる敵国の中にも,文化を大切にする気持ちの人も多かったのではないでしょうか。京都には工芸文化があったからこそ,爆撃の被害が少なかったのかもしれません。国内でも贅沢品を禁止する「七・七禁令」(*3)が発令されましたが,高度な技能を持つ作り手を「技術保存資格者」として例外規定も設けられたのです。戦時下という状況においても,文化を愛する心があったというのは,忘れてはいけない大切なことだと思います。
編:最後に産技研へのご提言などありましたらお願いします。
片:展覧会見学など,会員同士の交流会等を開催していただくことで,工芸をもっと深く考える機会になるのではないかと思います。コロナ禍が明けましたら,そうした機会をもっと持てますよう期待しています。
編集後記
つらい戦争体験から法律家への夢,そして人形師として独創にたどり着くまでの道のりは,激動の人生だったと思います。しかしその変化の中心は,常に「平和と幸福を願う」という強い動機に貫かれていると感じ入りました。伝統工芸には,美しさだけでない価値を伝える力があることを再認識したインタビューとなりました。
100年記念展はご自宅で開催する予定だそうです。片岡さんの思いが人形を通じて多くの方々に届くことを願っております。
片岡さんへのインタビューを終えて
インタビュワ―:細垣礼子さん(竹工芸)
「継続する」ということを「技術の追求」と捉えていましたが,根底にある人生観がそれを支えていると気づかされました。
片岡さんはお父様が人形師だったからこそ人形師を志したのだと思いますが,作り続けてこられたのは周りの応援や確かな思いや願いがあればこそだと感じられました。そういう人の思いを感じられる人でありたいと思いました。
人形の顔や衣装を褒める人が多いけれど,もっといろんな見るべきところがあること,見る側の人間性も問われるとドキッとしました。
説明文あればこそですが私は『回想』と『郷愁』が好きです。人形は他の工芸と異なり,人の形をしているため鑑賞に身構えてしまっていたのですが,これからはよく向き合ってみようと思います。
*1 村井次郎:彫刻家・マネキン製作。七彩工芸(現・七彩)にてマネキン製作を手掛けた原型作家。
*2 山川常七:第33代京都市議会議長を務める。(昭和32〜33)
*3 七・七禁令:奢し品等製造販売制限規則。1940年7月7日,軍需生産の拡大に貢献しないとして,貴金属や装飾品を規制する法律として施行された。8月には特定の美術工芸品に関しては免除が決定された。