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卒論を終えて。神様へ。

今日、卒論を提出してきました。

元々書こうと決めていたテーマから変更したのが3か月前です。
論文の骨組みを書き始めたのが2か月前です。
本文を書き始めたのが1か月前です。

いつもぎりぎりで、神様をひやひやさせてごめんなさい。

知識のはじまりは、神様だとおっしゃいます。
「主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出る」(箴言2:6)
と聖書にあるように、知識の根本は神様だと信じています。
じゃあ、卒論を書くような、学術研究はどんな意味をもつんでしょうか。

それは、神様をより深く学ぶためだと、聖書を教えてくださっている先生から教わりました。
卒論を進める間に悟ったことをつづっていきます。

私の卒業研究のテーマの中心にあるのは、「学習」です。
どうやったらイキイキと、よい関係性をつくりながら学んでいけるのか。
「学習とは個人が頭に知識を獲得することだ」という学習観への批判から生まれた比較的新しい学習観をベースにしています。
その学習観をざっくり言うと、自分が置かれた状況や環境で、コミュニケーションしあいながら参加を深めることが学習だということです。

1人でできることには限りがあります。
「1人でできること」の領域の周りに「1人でできないこと」の領域があるとしたら、その境目くらいには「方法はあってるはずだけどできない」「1人では心細くてできない」「1人では大変だからできない」と思う領域があるわけです。
その領域を、「だれかの助けがあったらできること」「いずれ1人でできるようになること」とみなして、コミュニケーションによって見極めサポートしてもらいながら、1人でできないことを一緒にやっていくのです。
つまり、何かを学んだり乗り越えたりするうえで、他者の存在とコミュニケーションがとっても大事ということですね。

一昨日、論文執筆中にこんな御言葉を聞きました。
「本当の完全さとは、一緒にやることだ」

論文内容と、御言葉とがつながった瞬間でした。
「私が一緒にやる相手はだれか。神様じゃないか。
神様は全知全能だけど、あえて私たち人間が役割を果たさないと理想はなされないようにあえてつくられた。
私が神様と一緒に行うことを、神様はどれほど心待ちにしているのか。私という存在が神様にとってどれほど大きいのか。それがどれほどの愛なのか。」

私1人は本当に小さいけど、神様が共にしてくださるから、その助けのおかげでできるようになることは無限大に広がります。
なんて恵まれた環境だろうと思いました。

一方で私は、100点満点を目指しがちです。
自分の基準、自分なりの方法を強くもっていて、助けを借りずにうまくやることに価値を置いています。
気づいたらその考えにはまっていて、すごく時間をかけたのに進まずがっかりしたり、エネルギーが減っていったりします。1人では限界があるって知っているはずなのに。

1人で何でもできるはずの神様の方が、「一緒にやろう」って言って手を差し伸べてくださっているのに、私が見向きもせず、1人で自分なりにやっているのがあまりにも申し訳なく思いました。
この固定観念や体質から、未だに抜けられずにいることも思い知らされて情けないし、でも自分を変えるのは難しくて、でもその挑戦自体も神様が共にしてくださるのがありがたくて。3つの気持ちが一度に押し寄せてきました。

そんな衝撃を受けて、神様が一層共にしてくださるようお祈りをして書き上げ、提出してきました。

神様、
神様を深く知る思い出となったこの論文、どのようにご覧になっているでしょうか。
神様が一緒に書いてくださったら、日本一の論文になると信じています。私が思う「一番」じゃなくて、神様が思う「一番」の論文として、受け取ってくださいますように。

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