第75代 崇徳天皇
崇徳天皇は、第74代 鳥羽天皇と藤原 璋子(待賢門院)の第1皇子で、院政がが標準になった1123年、父から3歳で譲位された。6年後、祖父の白河法皇が亡くなり、二十代半ばの鳥羽上皇の院政が始まる。摂政・藤原 忠通の娘・藤原 聖子が中宮となる。六勝寺のうち、成勝寺を創建する。
1141年22歳の時に鳥羽上皇により、2歳の異母弟(母は藤原 得子)である第75代 近衛天皇へ譲位させられる。上皇になってからは鳥羽田中殿で和歌などに没頭した。
近衛天皇は17歳で病で亡くなり、得子の養子・二条天皇までの中継ぎとして、その父で崇徳上皇の同母弟・第77代 後白河天皇が即位させられた。崇徳上皇の院政の可能性はなくなった。また、近衛天皇の崩御は、崇徳上皇の近しい藤原 頼長の呪詛によるとの噂が流布される。
1156年、鳥羽法皇が崩御し、崇徳上皇と藤原 頼長が兵を集めているとの噂が立ち、源 義朝らが頼長の邸宅を没収。崇徳上皇は鳥羽にいると捕縛されることなどから源 為義らと白河北殿に陣取るが、後白河天皇方に逆らったとされて夜襲をかけられ降服。周囲にいる朝廷・文官・武官の複雑な利害関係から起こった『保元の乱』である。
崇徳上皇は讃岐に流され、9年を過ごし亡くなった。最期は暗殺されたとも伝わる。その後、京都で要人たちが亡くなるなどの異変が起き、1184年 後白河法皇は白河北殿跡に崇徳上皇を祀る粟田宮を創建。その後も文学や芸能にたびたび取り上げられて都度脚色され、明治維新に際しては霊力を頼む対象にされるなどした。
『京都遠足』P47
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