第62代 村上天皇
藤原 穏子が42歳で生んだ第60代 醍醐天皇の第十四皇子で、兄の第61代 朱雀天皇とは3歳違いだった。兄弟とも聖宝の安産祈願を受けて生誕した。兄は病弱だったため母の勧めで17年で退位し、弟の村上天皇が21歳で即位した。
朱雀天皇の代に起きた承平天慶の乱への対応で朝廷の財政がひっ迫したため倹約政治が行われた。それまで律令制度に戻そうとさまざまな施策がされたが、村上天皇の治世頃には土地や税の制度が破綻し、戻せなくなっていった。一方、和歌や音楽などが振興された。
960年、平安京の内裏が初めて全焼し、それ以降、内裏は里内裏(一時的な内裏)となってたびたび移されるようになった。
967年、村上天皇は在位のまま42歳で崩御した。仁和寺の西北、村上山に御陵がある。
第九皇子の具平(ともひら)親王の子孫が藤原摂関家との関係を築き、臣籍降下し村上源氏として北畠氏や名和氏・赤松氏(諸説あり)などを輩出した。南北朝時代には時代の鍵を握る氏族として表出した。
『京都遠足』P45
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