衣笠山に連なる山々
❶京都盆地の北西に位置する衣笠山
衣笠山は京都盆地の北西に位置する、南から見るときれいな放物線状の山容を持つ標高201mの低山です。
西の桂川に向かってなだらかで同じような形の200m級の山々が続き、そのすぐ後ろに500m級の山々が二重に聳え、その奥に険しい800m級の北山・丹波高地の山並みが見え隠れします。
この低山の地質はチャート岩という堆積岩で、海底において放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が堆積してできた固い層状の岩です。それがプレートに乗って地表に現れ(付加体という)、削られて今の形状になりました。
【参考】地質Navi(国立研究開発法人 産業技術総合研究所 地質調査総合センター)
❷離宮から総本山へ
山々の裾野は『宇多野』『嵯峨野』『化野(あだしの)』などと呼ばれ、山を借景とした全国的な本山を名乗る寺院が点在します。これは、このあたりを離宮(別荘)や御所にした代々の天皇が、晩年に出家し法王となってそれぞれの時代に選んだ宗派の伽藍を創建したためです。
❸王家の谷
また、この一帯に天皇陵や皇女・皇后陵墓が作られました。その数の多さは『王家の谷』といった様相を呈しています。また、衣笠山近辺や化野は、京都に住む人の葬送地でもありました。
❹秦氏の痕跡
このエリアは、平安京ができる以前から、秦(はた)氏が居住していました。第15代 応神天皇の代に大陸から亡命してきたという秦氏は、奈良の葛城地方に住しましたが、次第に近隣に移住し、京都では深草辺りと桂川畔に住しました。秦酒公が第21代 雄略天皇に一族が織った絹をうず高く積んで献納したことから『うずまさ(太秦)』の名が与えられ、現在も地名として伝わっています。聖徳太子に仕えたとされる秦河勝は、秦氏の氏寺として603年 広隆寺を創建します。この辺りには聖徳太子が通った道とされる「太子道」も残ります。
→ 京都の盆地と山をまわして観る(国土地理院Globe)
『京都遠足』(P40)
https://www.worec.jp/03kyoto.html