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宇治拾遺物語〜聖宝僧正一条大路渡る事

今日は、「宇治拾遺物語」に登場する、ある有名な僧侶の意外なエピソードをご紹介します。のちに醍醐寺を開いた聖宝僧正が、若かりし頃に見せた大胆なふるまいのお話です。今も昔も、はだかになれる人物は強いという教訓かもしれません。

はじまり

ある日のこと。若き聖宝は、東大寺の地位こそ高いものの、極端に倹約家であった高僧との論争の末、こんな挑発を受けました。「お前、賀茂祭(葵祭)の日、はだかで大通りを練り歩いてみせよ」と。

葵祭の日

葵祭は、現代でも京都を代表する京都三大祭のひとつで、賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)でもっとも重要なお祭りです。毎年5月15日に行われ、古くから続く格式ある祭りとして知られています。その日、聖宝は高僧の挑発に応じ、大胆な姿で大衆の前に現れました。古文で読んだときの臨場感が素晴らしいので、引用してみます。

(見物に訪れた大衆が騒ぎ立てる中)

何事かあらんと思ひて、頭さし出して、西のほうを見やれば、牝牛に乗りたる法師の裸なるが、干し鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高く言ひけり。その年の祭りには、これを詮にてぞありける。  

新潮日本古典集成 宇治拾遺物語  144話  聖宝僧正一条大路渡る事

「西のほう」から、「牝牛に乗りたる」「法師の裸」が、「干し鮭を太刀に」して、「牛の尻をはたはたと打ち」「尻に百千の童を従えて」——。
葵祭の日、一条大路に現れたこの光景が、細部まで見事に描写されており、のちの世で言う「傾奇者(かぶきもの)」の気風を感じさせる、ケレン味たっぷりの場面となっています。この一節を声に出して読んでみると、「し」という音がリズムよく繰り返され、まるでラップのように韻を踏んでいるようも聞こえてきます。結びの「これを詮にてぞありける」は、「これが一番の盛り上がりどころだった」という意味です。

結末

この出来事は京中で大きな話題となり「宇治拾遺物語」以外の書籍にも同様の逸話が記されています。このときの聖宝の大胆な行動は、時の帝の耳にも届き、「今の世にどうしてこのような尊い人物がいたものであろうか!」と感嘆されたといいます。どこまで脚色なのか定かではありませんが、この一件がきっかけで、聖宝は僧正(僧侶として最高位)の地位を得たと物語は伝えています。


醍醐寺

聖宝が開いたとされる醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山です。山の上の上醍醐と、山の下の下醍醐からなる350mを超える高低差のある広大な寺域は、世界遺産に指定されています。また、醍醐寺には数多くの国宝や重要文化財の建築物や美術品があり、塔頭の三宝院の庭園は国の特別名勝庭園に指定されています。
平安時代に活躍した聖宝。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流、当山派修験道の祖として知られています。江戸時代(宝永四年)には、理源大師という大師号が送られています。


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