超高齢化社会で高齢者はいかに生き、そしていかに死ぬか
American Eldercide:
How It Happened, How to Prevent It
「アメリカの高齢者殺人:いかにして起こり、いかにして防ぐか」
Margaret Morganroth Gullette
October 2024 (The University of Chicago Press)
Eldercideは辞書に載っていない。
しかしまぁ、なんとなく意味はわかる。
elderは、年上の、とか高齢の、という意味。
-cideは、pesticideが殺虫剤、genocideが大量殺戮なので、なにかを「殺す」という意味だろう。
例によってググってみると、ウィキペディアの英語版が出てきて、同義語でsenicideと書いてある。
seni-はきっとsenior, つまり「シニア」のことだろう。
eldercide=senicideは、「高齢者を殺すこと、あるいは高齢者を見捨てて死に至らしめること」。
今回紹介する本は、アメリカでの新型コロナウィルスで死亡した高齢者にスポットをあて、政府、医師、メディアがいかに年齢差別、能力差別を助長し、多くの高齢者を死に追いやったかを、丹念な調査からあきらかにした、告発の書だ。
アメリカで新型コロナウイルスで亡くなった人の実に20%が、介護施設に入居する高齢者や障害者だった。著者はこれを、回避できた悲劇だと言っている。
だとしたら大問題ではないか。
でも喉元過ぎればなんとやら。とくにメディアと大衆は忘れっぽい。
いまは大統領選でそれどころではないだろう。
でも、アメリカに限らず、こういうageismエイジズム=年齢差別ってあると思う。
とりわけ少子高齢化で世界の先を行っている日本で、このことを考えるのは重要だ。
そう思うのは、自分がいわゆる団塊ジュニア世代にあたる、人口の多い年代にいるからかもしれない。この年代は、就職氷河期で非正規雇用でしか働けなかった人が多く、その不安定な境遇から非婚率が高く、当然子供を作らないから出生率も落ちて、そのことをさも自己責任のように責められ、そしておそらく年金受給年齢はどんどん上がっていき、やっと年金をもらえる年齢になっても、人口が多いという理由できっと額を減らされたり、社会保障の自己負担率を上げられたりして、死ぬまでじゃまにされる年代なんだろう。
しかし政治の話をするのはダサい、暑苦しいヤツ、という長年の刷り込みのせいで、現政権が自分たちにどんなにひどいことをしても、ぜったいに選挙になんて行かないし、反対票も投じないし、まったく異議を唱えない、とっても都合のいいサイレントマジョリティーなのだ。
若いころは、高齢者などへの社会福祉を充実させるためと言われて、税金をせっせと払わされ、やっと子育てが終わるような年齢になったころには、今度は若い子育て世代を支援する政策に予算をまわしましょう、なんてことを言われて、また税金を払わされる。正社員で働いても給料は上がらず、それなのに物価はどんどん上がり、生活レベルはあきらかに低下しているが、それが国の政策が無策なせいとは考えない。とことん損な年代なのに、だれも政治に文句を言わない。いいカモだと思う。
そう思うとよけいに、このeldercideは現実味を帯びてこちらに迫ってくる。
増え続ける医療費を抑えるために、高齢者の終末期医療をやめればいい、ということを言って炎上した人たちもいたみたいだけど、eldercideってそういうことだよね。
実際に高齢者を殺すわけではない。でも、できる治療をもうやらないことにする。あきらめさせる。延命しないように促す。ストレートにではなく、あくまでも間接的に生きることをあきらめさせるのだ。
「もう十分」
平野啓一郎の『本心』で、主人公朔也の母は、「もう十分だから」と言って、安楽死にあたる「自由死」という死を望む。
自分はもう十分生きたから、これ以上生きながらえて息子に迷惑をかけるぐらいなら、という親心だろう。これは切ない。
子供に迷惑をかけるのをなんとも思わない親もいるが、自分が老いて、子供たちの世話にならなければいけないことを心苦しく思う親は多い。そこに「もう十分」という言葉は、キラーワードとしてしっくり収まる。
私なんかもうっかりその言葉に同調しそうになってしまう。でもそれって本当に「本心」なのか。
立岩真也『良い死/唯の生』は、安楽死=良い死、という考え方に異を唱え、良い死なんてない、ただの生でいい、ただの生を全うすればいい、ということを、600ページもかけて説いた本である。
私は、本屋で見かけて衝動買いしたので、立岩さんがどういう人かもよく知らずに読んだ。立岩さんの文章は、くどくどとまわりくどくてわかりにくい。癖のある文章に難儀しながら、それでもページをめくる手が止まらなかった。
立岩さんは障害者福祉について考えてきた人で、だから、自分の体が自分の思うようにできなくなったらお終いだ、みたいな自己決定主義には、それでは障害者の存在を否定することになる、と断固として反対している。
それは自分にだけあてはまることで、ほかの人のことはとやかく言ってない、と言ってもダメなんだそうだ。
映画『PLAN75』は、75歳になったら生死を選べる制度ができている架空の世界の話だけど、選べると言いながら、その実「死」の方向へ、国がそっと背中を押しているという薄気味悪さがある。
倍賞千恵子演じるミチは、78歳でホテルの客室清掃員という非正規の仕事をしていて、一人暮らしだ。でもある日、高齢を理由に解雇されてしまい、家賃の支払いにも困るようになる。ミチは「プラン75」の申請を考え始める。
「プラン75」は、その世界ではまるでマイナンバーカードの申請のように大々的に明るいイメージで宣伝されていて、街角でキャンペーンなどもしており、「自分で選べるっていいなって思いました」なんて笑顔の高齢者に言わせているCMが流れたりしている。
こうやって巧妙に「死」を選ばされてるんだなぁ。。。自分で納得して選んだって思っちゃうよね。子どもたちにも迷惑かけなくてすむし、なんて思ってね。子どもを切り札にされたら、親は弱い。
でも、こんなふうに親の人生か子どもの人生か、みたいな二者択一がそもそもおかしい。
まず自助で、そのつぎが家族など身近な人間の共助で、最後の最後が公助、という順番がおかしい。
ほんらい誰も取りこぼさないのが民主主義なんじゃないの?
でも予算が限られているんだからしかたない、と訳知り顔でいう人がいるけど、ほんとにそうなの?そういう現実主義みたいな、リアリストみたいな人って、じつはよくわかってなくて言ってる場合が多いと思う。
そういう人は、子育て支援とか社会福祉の話になると予算がないといい、そのくせ防衛費は岸田政権のときに、現行の1.6倍にあっさり増やしてるけど、そのときは予算がないなんて話はぜんぜん出ていなかったことを、どう説明するのか。
私はこういう「現実を見ろ」「大人になれ」「頭がお花畑か」みたいな理想主義を揶揄する姿勢が大嫌いだ。
理想がなければ、人は生きていけない。
トマ・ピケティが、累進課税をもっとちゃんと進めれば、貧富の格差は埋められるって言ってる。ピケティは、データを用いて20世紀の富の不均衡を明らかにした人で、データの集計などという地道な努力のはての主張には、説得力がある。
それに、人口のわずか1%の超富裕層の資産が、残りの99%の総資産よりも大きいとかってよく聞くんだけど、それっておかしいよね?
そこをもっとならせば、貧困なんてなくなるのに。
これからの時代は、弱肉強食ではない。inclusive、インクルーシブ=包括的、のほうがキーワードになる。だれも取りこぼさない。それは高齢者も、障害者も、女性も、子供も、外国人、移民も、LGBTQ+の人も。
私は、そういう意味で、「遅さ、弱さ、小ささ、古さ」のような、従来はマイナスにとられがちな価値を大事にしていきたい、と最近思うようになった。それはなにも理想主義をかかげているわけではない。そうしたほうが、自分がラクに、幸せになれるような気がするからだ。