クスノキと仏像のはなし その3
その1、その2と続いたクスノキと仏像のはなし。今回は仏像から少し離れてしまいますが…クスノキと信仰の名残について、奈良を舞台に話したいと思います。
車を運転していると、突如として現れる大きなクスノキ!ここがどこか、わかる人はかなりの奈良通です。
奈良市のとなり、大和郡山市にある大きなクスノキです。郡山城のすぐ西側にある、大織冠という地にこのクスノキはあります(地図下側の赤丸地点)。郡山城のすぐ西を通る県道9号線(奈良大和郡山斑鳩線)の道端です。大織冠と書いて「たいしょくかん」……大織冠!!!となった人は、さらに奈良好き、歴史好きの人のはず。
藤原鎌足像 桃山時代 16世紀 奈良国立博物館所蔵
大織冠とは、藤原鎌足の尊称です。大化3年(647)に制定された七色十三階冠の制の、最上位が大織冠。藤原鎌足は、この大織冠の位を死の前日の天智天皇8年(669)10月15日に授かりました。日本史上唯一、藤原鎌足だけが授与されているので大織冠=藤原鎌足とされています。
そうした藤原鎌足ゆかりの尊称が、どうして大和郡山市にあるのでしょうか。
この地には安土桃山時代の一時期、鎌足公を祀る社がありました。豊臣秀吉の弟である秀長が入城後、天正13年(1585)9月に多武峯談山神社の鎌足公の御神霊を城の西北の地に遷座しました。大織冠宮と称し守護神として祀られ、付近一帯が大織冠と呼ばれたのがその由来です。
このクスノキが育つ地は、付近よりも小高い場所となっており、地形的にも重要な位置であったことが想像されます。新多武峯とも呼ばれていたようで、遷座に反対した多武峰の衆徒たちの強い訴えがなければ、この場所が談山神社として今に伝わっていたかもしれません。
天正18年(1590)1月、秀長の病が悪化します。その原因が大織冠遷座の祟りとされたことから、兄の秀吉が同年談山神社に帰座させました。しかしその甲斐なく、秀長は翌年に病死してしまいます。一部の衆徒はその後も大和郡山で大織冠を祀り続け、宝暦年間には現在の大織冠鎌足神社の場所へと移ったとされています(上地図、左上の赤丸地点)。
ここはクスノキ優先道路!
移り変わる風景のなかで、しっかりと根を下ろすクスノキ。クスノキは自生しません。いつかの時代に、この場所を神聖な場所としクスノキを植えた人たちがいます。大織冠宮があったとされるその場所で、当時の面影を伝えるようにクスノキは今も大きく育ち続けています。今ではこのクスノキだけがこの地の歴史を記憶する、唯一のランドマークとなっています。
鹿がいる…ここは……もちろん奈良公園です。これからの話は時代がぐっと下り明治時代です。
手前に見えるのは春日西塔の回廊・門の礎石。奥にはちょっと大きなクスノキがふたつ…わかりますか?
クスノキはお寺や神社の門前に、邪除けの意味も込めて対で植えられることがあります。明治時代後半に、この対のクスノキの植栽に関わっていたとされるのが、平城宮跡の保存にも尽力した棚田嘉十郎です。棚田はもともと植木職人でもあり、奈良公園の植栽にも深く携わっていました(※)。
春日宮曼荼羅 鎌倉時代 13世紀 奈良国立博物館所蔵
左に見える塔が、往時の春日東西両塔。室町時代の応永18年(1411)に落雷に伴う火災で消失。以後再建することなく現在に至ります。
例え消失した場所でも、神聖な地であることが伝わるよう、そして大切な遺跡として保存されるよう、ここに対のクスノキを植える!!という当時の棚田嘉十郎の熱い想いを、大きくなった現在のクスノキたちが代弁しているようです。明治以前の歴史を引き継ぎ、受け継がれてきた信仰をトレースしたような植栽に奈良愛を感じない訳にはいきません。
今は奈良国立博物館の駐車場となってしまっている東塔跡の近くにも、対のクスノキ。末長く大きく育って欲しいですね。
(個人的には、もっと目立たせて皆に注目して欲しいところ…)
今回紹介したクスノキの他にも、春日参道沿いや奈良公園には対で植えられた木が多く存在しています。植栽から歴史やその地に伝わる信仰を読み取るのもまた、奈良を歩く際の楽しみのひとつです。
是非とも大きな木、対となる木を探しながら、いつか奈良公園を散策してみてくださいね!
ちなみにクスノキのはっぱ、手にとってクシャクシャするとカンフルの良い匂いがふわぁっとします。で、鹿も食べます。。。美味しいのかな?
その4もあるかも……乞うご期待!!
※ 詳しくは、あをによし文庫「平城京ロマン―過去・現在・未来 今、古の都のさんざめきが聞こえる」2010年 井上 和人 、粟野 隆 (共著)を参考してください
#奈良 #仏像 #興福寺 #春日大社 #写真家 #クスノキ #大樹 #藤原鎌足 #大和郡山
ぜひサポートもお願いします!今後の写真家活動の糧にします。よろしくお願いします!!