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ピースアクションinヒロシマ​8月4日-6日

 生協共立社では日本生協連が主催する「2024ピースアクションinヒロシマ」に5組の組合員家族と3名の職員を派遣しました。戦争・被爆体験の継承や、世界のさまざまな戦争や紛争など、多角的なテーマで平和を考える学習交流をしてきました。参加者報告を掲載いたします。

参加者報告


酒田生協 工藤幸子さん

 研修一日目、広島市に着き、原爆ドームを訪れました。この賑わいがある広島市に七十九年前に原爆が投下されたのです。原爆ドームを前に、一瞬にして広島が悲しみの地へ移り変わった当時の様子が思い浮かびました。私たちは資料館で最初に映像を見てから展示物を見学しました。果たして小学四年の娘にとって原爆がどのようなものなのか理解できるだろうかという思いがありましたが、映像で全体をつかむことができました。自分と同じ年頃の子どもが想像を絶する恐怖体験にあいました。「学びたくても学べない、生きたくても生きられなかった」現代の子どもに考えられるのでしょうか。折り鶴が今もなお絶えず寄贈される理由も知ることができました。様々な外国人も多く訪れており、日本人以外の方にもこの事実を知って平和を願ってほしいと思いました。二日目は交流行事があり、小さい頃から平和教育で学習してきた若い世代の方が継続して活動を行っていることに感動しました。他県の組合員さんとお互いの考えを発表し合い、交流できたことは大変、貴重な体験でした。「みんなのひろば」では被爆ピアノを演奏させていただくことができ、平和を祈って「アメイジング・グレイス」と「ふるさと」を演奏しました。三日目、平和記念式典へ参加しました。いつもは何気なくテレビ、新聞で見る景色を自分の目で、肌で感じ、自分ごととして考えて参加することができました。小学生2人の「ちかい」が大変わかりやすく、感動しました。国の重要な行事に参加できたことは一生忘れません。今後も自分ごととして戦争、平和について考えていきます。「日本に、世界にNO!戦争!」このような貴重な研修に親子で参加させていただき、ありがとうございました。


酒田生協 工藤克己さん(中2)

 広島はきれいな街並みが広がっていて、本当にこの地に原爆が落とされたのかと疑いたくなるほどでした。その背景にあったのは、「絶望」から「希望」に変えていった広島の人たちの努力があったからだと確信しています。私が印象に残った2つを紹介します。まず、「原爆ドーム」です。路面電車から原爆ドームを見てみるとそこだけ時間が止まっている、そんな初めて味わう感覚がしました。教科書にも当たり前に出てくる建造物ですが、ほんものを見るとそれだけで当時の被爆者の様子が容易に想像できてしまいました。だからこそ、原爆ドームは「絶望」の象徴として次世代に平和の尊さを伝える役割を今までも、そしてこれからも担い続けてほしいと思いました。もうひとつは「広島平和記念資料館」です。資料館では映像や写真などの資料がたくさんあり、原爆に対してのイメージがより具体的になりました。被爆者が現代に生きる私たちに向けたメッセージや言葉は、私の心に一生残り続けることでしょう。私はこの研修で数え切れないほどの大切なことを学びました。過去の過ちがもう二度と起こらないように歴史を残し、次世代へと繋げていくことの重要さ、どんな絶望的な状況でも希望はいつか見えてくることなど、酒田に持ち帰ることができました。人生においての教訓を胸に刻み、生活に活かしたいです。


酒田生協 工藤明希子さん(小4)

 私が印象に残ったのは、二日目の平和記念資料館です。たった一発の原爆で広島を一瞬にして襲った原爆の恐ろしさを知りました。生きたくても生きられなかった、多くの人々に追悼を捧げました。
 初めは緊張していましたが、少しずつみんなと仲良くなって良かったです。この機会に広島について知ることができ、勉強になりました


鶴岡生協 齋藤愛さん

 最初に、この度、私たち親子を代表派遣として広島に導いてくださった組合員の皆様、鶴岡生協の組織部の方々、共立社の方々、引率してくださった職員の美佳さん、高彬さん、雅子さんへ心から感謝申し上げます。自分では訪れる勇気がなかった広島。参加するチャンスを待って、念願のピースアクションinヒロシマに選んでいただき、感動と期待を持ちつつ、代表派遣として緊張感もありました。一日目は、今回いちばん見たかった原爆ドームでした。今まで映像で見てきたものとは全く印象が違い、迫力があり、凍りつくような寒々しい、寂しい印象を持ちました。この場所であの惨劇が……。広島随一の繁華街であったこの町がほぼ全滅。当時のままなのは、きっと原爆ドームとこの川なのであろう、苦しむ人々が目の前に思い浮かばれるようで辛く切なく、事の重みを実際、現地に立って感じているという不思議な感覚と訪れたことで感じる空気感に圧倒されながらも、訪れて手を合わせることができた喜びに感謝の気持ちがあふれ、被爆者の皆様に千羽鶴を納めさせていただき、原爆の子の像に手を合わせることができ、追悼の気持ちが高まりました。今回、学習していくなかで私がずっと思い続けてきた「どうして広島に原爆が落とされたのか」について。日本を止めるためだったという現実。やはりそうだったのかと少し腑に落ちる自分。厳しいかもしれないですが「原爆が落とされた」ではなく「落とさせてしまった」のではないかと。落としたアメリカを憎むのではなく、日本がしてしまったことに目を向け、非を認め、平和な世界をつくっていくのは、これからの子どもたちです。現実を伝えて、一緒に考えて、願うのではなく行動に移し、私は活動を起こしていくことを誓い、一歩を踏み出します。


鶴岡生協 齋藤結友さん(中1)

 ぼくは、ピースアクションinヒロシマで三つ分かったことがあります。原爆・被爆者・広島のみなさんの戦争への思いを学習してきたからです。最初に原爆です。原爆は核兵器の一部で原爆は彼らの日常をうばって地獄にしてしまったのです。ぼくは、原爆が地獄にしてしまうほどおそろしい物で、これから核兵器をなくして当たり前の日常がなくならないように、核兵器を作らないでと訴えていきたいです。次は被爆者の証言です。ぼくは、平和記念資料館では、被爆者の辛いことや悲しい過去があることがわかりました。八幡照子さんが爆心地から約二、五キロから離れた所で被爆しました。ぼくは、そんな所まで原爆が爆発したのがびっくりしました。次は、ヒロシマのみなさんの戦争への思いです。みなさんは、核兵器をなくし戦争をなくし、そして平和を望んでいます。ぼくもこれから、戦争をしない平和な未来をつくっていきたいです。


鶴岡生協 齋藤友葵さん(小3)

 まず一日目に、げんばくドームをはじめて見たのですが、とても大きなたてものだったのに、げんばくが落とされてあんなに小さくなってしまったことが分かりました。げんばくがとてもおそろしい物だと思いました。後はしりょうかんでは、わかい人が、たくさんなくなってしまっていて、ちょっとぼくもこわかったです。水ものめなくて、とてもつらくて、くるしい生活をしていたことが分かりました。次に二日目のことです。次はサッカースタジアムがあるところに行ってぼくはサッカーをやっているのでとても楽しかったです。次に小アリーナで話す所があってけん外の人もいて、とってもとおくい北海道の人とも話しました。とても楽しかったです。さいごに三日目のことです。三日目は式てんに行きました。岸田そうりもきました。式てんにはとても人がいっぱいでびっくりしました。岸田そうりがいて、とてもすごかったです。式てんは平和になるための会だと分かりました。いっしょに広しまにいった人がとてもやさしいかたで、とてもおせわになり仲よくなれたのでとてもいいけいけんでした。みやじまではしかがいっぱいいてびっくりしました。また、みなさんと会えるのを楽しみにしています。


新庄生協 阿部純子さん

 今回は、ピースアクションih ヒロシマに参加させて頂き、本当にありがとうございました。 テレビや教科書でしか見たことがない、知ることができなかった原爆の恐しさ… 言菜では、言い表せないものでした。一日目、自分の目で原爆ドームを見て、原爆資料館を見学させていただき、 やっぱり、実際に現地に来てみないとわからない事だらけで、 驚く事が多かったです。 また、広島平和記念公園にてコープの方々が作成した千羽鶴を奉納させて頂きました。たくさんの方々の思いが込もっている千羽鶴なんだろうな…と思いなから奉納しました。二日目、広島総合体育館にて、若者たちの平和な未来についての パネルディスカッションをモンターで視聴し、その後、参加者同士の感想交流会を行いました。私は北海道の方と同じグループだったのですが。原爆についてだけでなく、今のウクライナの戦争の事など、色々な事を話し、良い機会だったなぁと思いました。午後からは、ピースアクションinヒロシマ虹のひろばに 参加させて頂き、被爆体験者の証言、広島県内の高校生、大学生の平和に関する取り組みを聞く事ができました。特に私は広島市民の方々の歌を聞いて涙が止まりませんでした。 私は、原爆が投下された当時の事で知っている方が少なくなっている中で、たくさんの若者たちに継承れている事がすごく印象に残りました 。なかなか親子そろって体験できない事に参加させて頂き、私も子供たちも本当に良い思い出になりました。 考え方、広島から帰っていてからの行動が少しずつではありますが変わった様に思います。 本当にありがとうございました。


新庄生協 阿部泉希さん(中3)

 広島に行って、ぼくは一日目に行った原爆資料館ではユーチューブやテレビで写してくれないような写真や動画をたくさん見たし、学校ではおしえてくれなかったような細かいところまでしっかり、くわしく書いてありました。ぼくが心に残ったのは、女の子が乗っていた三輪車です。その説明のところには、「この三輪車は女の子が原爆が落ちる直前まで遊んでいた三輪車です。母親が天国でも遊べるようにと、いっしょにうめたそうです」と書いてありました。それを読んだ時、とても心が痛くなり、戦争はなにがなんでも絶対にしてはいけないんだと思いました。あと、広島と長崎では落とされた種類が違いました。広島の原爆は「リトルボーイ」と言って形がスリムだったため、この名前だったそうです。長崎に落とされた原爆は「ファットマン」と言って、広島に落とされたリトルボーイに比べ、ずんぐりむっくりだったため、この名前だそうです。このように、学校では、先生に聞いても、教科書にも書いてないことが山ほど知れたので今までよりも、もっと深く考えるきっかけになりました。また、広島の名物のお好み焼きを食べ、家や山形の店で食べるようなお好み焼きと違い、メンが入っていてとてもおいしかったです。その後に食べたラーメンもおいしかったです。二日目は当時を知る人の話を聞き、原爆の恐ろしさや今までも後遺症で苦しんでいる人がいたり、その人にしか聞くことのできないような話をたくさん聞けました。高校生の絵はとても考えさせられるような絵でした。三日目には平和記念式典に初めて参加して、人がたくさんいて外国人も日本人と同じくらい真剣な目で見ていました。岸田さんも、他の国の人も原爆について同じことを考えているんだと思いました。


新庄生協 阿部友亜さん(小6)

 私が一日目に行ったのは原ばくドームと資料館です。まず、原爆ドームを見て、下に落ちたレンガ、今でもくずれてきそうな建物を初めてみたら、こんな頑丈な建物もくずしてしまうぐらい原ばくは恐ろしい物だと思い、当時の人々の事を考えたら、むねがいたみます。次は資料館です。この場所は特に印象に残りました。二階に上がると、原ばくが投下された時や、その時の人々の服装などがかざられていました。他には、当時の人々がどうなっていたのかもイラストにされて描かれていました。 それを見ると、人々が川に入っている様子、皮ふがたれさがっている、失礼だけど気分が悪くなるイラストばかりがありました。人々がそれぐらい困難な状況かと、あらためて気づきました。資料館、原ばくドームを見て回った時、心に残った事は、ひばく者の話がとても恐ろしかったことです。その人の話をきいて、戦争はとてもひさんなものだと思いました。また、この原爆ドームを見て、当時の恐ろしさを知ろうと外国人が沢さん訪れていたのにもおどろきました。原ばくは私の想像をはるかにこえるほどのすさまじい、はかい力を持ち、広島の人たちに深い苦しみを与えた恐しいものだと分かりました。あらためて 思ったことは、七十年前とくらべて今が、ものすごく幸せで平和な世の中なのだと感謝して、ありがたみを持って生活することです。そして戦争をしてはいけないのと、させないためにも、私が思った戦争の恐しさを仲間たちなどに伝えて、知ってもらい、一人ひとりが平和について考えを持って、今、自分たちに出来ることから行動していくことが、大切なことだと分かりました。平和の大切さ、二度と戦争をくり返さないという思いを未来につなげていけば 、きっと今みたいな平和な世界の実現につながると思います。最後に私を広島に連れて行ってくれたみなさん、感謝します。ありがとうございました。


山形生協 落合友理恵さん

 ピースアクションi nヒロシマに参加して8月6日の朝、広島市平和記念式典に向かう時、原爆ドーム前で路面電車を降りるとこれまで見たことのないような異様な光景・物々しい雰囲気を感じた。その二日前に訪れた平和記念資料館でも、一歩踏み入れると異国のような空気感の違いを感じたことを思い出した。当時の写真や遺品を見て歩き、原爆についてわかっていたつもりではあったが、実際は何も知らないのと同様であったことに気づかされ、不甲斐なさを感じた。また、展示物を見ただけでは理解が難しい娘に対して、必死に当時の状況や悲惨さを説明している自分がいた。広島に足を運ぶ機会を得て全身で感じたことを伝えることができた経験は生涯忘れることはないだろう。 虹の広場では、被爆者の証言を初めて聞く機会があった。被爆体験の生の声を聞き、実際に体験した者にしかわからない当時の心境・困難さ、切迫感や緊迫した状況がひしひしと伝わってくるような語りに心を動かされるような気がした。 街が一瞬で破壊され変わり果ててしまった惨劇、被爆した者の行列を見た時の衝撃的な姿、学び舎である小学校の校庭で火葬をしている光景…。戦後七十九年経ってもその光景は脳裏から消えることはなく、改めて戦争は決して許されないことだと思った。また「無関心ほど、こわいものはない」と話されていたことが印象的である。被爆世代が高齢化しており、被爆二世と言われる方々が証言活動を受け継いでいる現状を知った。戦争・被爆のことを知らない子どもたちが増えてくる今後、学ぶ・知る機会が大切になってくると感じた。今回、新たな学びを得たことが私自身もっと知りたい、調べてみたいと改めて興味関心をもつきっかけとなった。平和活動に関わっている全ての人が各々の取り組みに真剣に向き合っており、強い意志をもって活動を継続している姿勢、熱意、思いをもって伝えていることを目の当たりにし、実感した有意義な三日間であった。今後は、今回経験したこと、身をもって感じたことを伝えていくことが自分の役目であると感じている。自分事として捉えて、家族・友人・職場…等、多くの人に発信していくことを誓う。


山形生協 落合陽愛さん(小4)

 私は広島に行って特に心にのこったことが二つあります。一つ目は「原ばくドームの建物」です。七十九年前は、広島物産ちん列館という大きな建物だったけれど、原ばくによって一しゅんにして建物の多くの部分がなくなったことにおどろきました。また、この原ばくドームはほぞん工事をされていることを知りました。原ばくドームは、ばく心地から百六十メートルときょりが近く、とても強い衝撃があったことを表しています。今もほぞんされている理由は、原ばくが落とされたときにはまだ生まれていいなかった私たちや、原ばくについて勉強しようとする人に「実際に起きたことを伝えるため」ということが分かりました。二つ目は「平和記念資料館で見た写真やい品」です。ひばくした人の目が飛び出していたり、体中にやけどをしていたり、一しゅんのひばくによってその日に五万人もの人が亡くなっていました。ひばくの後いしょうで何年もたってから亡くなった人もいたということを知り、本当にこわいものだと思いました。そして、原ばく後の黒い雨のことは初めて聞く出来事でした。この雨が人の体にはよくないものだとは知らずにのんでしまった人達がたくさんいて、この雨のせいで亡くなった人も多いと学びました。また、資料館では当時の子どもが着ていたふくがぼろぼろにやぶれていたり、ひばくした三輪車はとけてしまい今にもこわれてしまいそうな様子でおどろくことばかりでした。さいごに平和について考えてみました。平和というのは、戦争なんかしないでみんながなかよく安心してくらせることです。私たち子どもはみんなが当たり前に学校に行って楽しく勉強ができて、自分の行きたい場所にでかけることができています。これがへいわなしょうこだと思いました。広島に行って心にのこったことや分かったことを、こんどはわたしが家族や友達に伝えていきたいです。


北村山生協 和田久美子さん

 今回、私が応募したのは私の息子や娘に平和について、あまり話す事がなかったことと、孫達が高校生と小学六年生になり、私は生協組合員になってから長い間、食生活だけでなく平和についても学習してきたからです。私の生まれた年は広島が被爆した日の三週間後でした。孫達の年齢や私の年齢から、今年行かなければ後悔すると思い、応募しました。参加できることが決まり、近づくにつれて、長旅、暑さ、色々と不安になりながら出かけました。平和記念式典で隣の席の四十代位の男性に声をかけていただき、お話する機会がありました。「どちらからの参加ですか?」と聞いたところ「長崎から」との事。「長崎も被爆して大変でしたね」と聞いた所、「生まれは広島、妻が被爆者なんです」との事。被爆二世かなと思いますが、もう亡くなったそうです。「それなら一般席ではなくて遺族席の方がよかったのに?」と聞いたら、その方は「遺族じゃなく、一般の人達はどんな思いでどこから参加したのかしりたいんです」との事。色々な思いで参加している事を知り、外国人や高校生など大勢の参加、一人ひとりどんな思いで来たのかと私も想像しながら広島市長や広島県知事、総理大臣の挨拶を聞いていました。総理大臣の話は、私の心に響く事はなく、広島市長が強く核廃絶を訴えていたのが心に残りました。二日目の自由な時間に宮島の厳島神社に短い時間でしたが、行く事ができ、孫達や仲良くなった友達も大はしゃぎで楽しんで、私も行けて良かったです。広島平和記念資料館や原爆ドームだけでなく、世界遺産の厳島神社の文化遺産に行けて良かったです。最後に生協職員の三名の方に大変お世話になり、高齢者の私に特に気をつかってくれました。時折「大丈夫ですか?」と歩いている時に手をつないで引っ張って、荷物を持ってくれたり、おばあちゃん可愛いと笑ってくれたり、気持ちをほぐし楽しませてくれました。本当にありがとうございました。


北村山生協 阿部未空さん(高2)

 戦争について知っていたことはあったけど今回、初めて広島に行き、被爆体験を聞いたり、原爆ドームの資料館に行ったりして知らないことをたくさん学べました。原爆は原爆が落ちた時だけでなく、その後の黒い雨や放射線などで被爆してしまった方達もいることを知りました。また、その症状が何年も後に出る人もいたり、今もその症状に苦しんでいる人がいることも知りました。原爆が落ち、全身やけどに悔しみながらなくなったり、目が垂れ落ちながら逃げる人などたくさんの人が苦しみながら逃げていたということに驚きを覚えました。最近、ドラマや映画などで戦争について取り上げられることが多くなっていて、何となく観ていたけど、今回、広島に行き、戦争の背景や戦後の日本、広島についてとても興味が湧き、もっと知りたいと思うようになりました。また、原爆ドームや広島平和記念資料館に行った時に外国の人がたくさんいたのが印象に残りました。まだ外国では核の恐ろしさを認識していない人が多いと思うので核の恐ろしさを広められる場所だと改めて感じました。今回、原爆のことを学んで、たくさんの被爆者の体験を知ることができ、とても良い体験ができました。今後、この経験を生かせるようにいろんなボランティアや戦争のものに関わりたいと思えるものになりました。


北村山生協 阿部七海さん(小6)

 私は広島に行って、広島平和祈念資料館に行ったり、いろんなところに行ってきました。そこで被爆について一番心に残ったことが二つあります。一つ目は、広島平和記念資料館に行ってきたことです。そこで被ばくした人の実際の写真を見て、被爆した人がどんな姿だったのかを見て、どんな生活をしていたのかを見ることができました。そこで、私が思ったことは、被爆した人は、水をのみたくても水をのんだら原爆の放射線でもっと体の状態が悪化するかも分からないから水を飲むことも、食べることもできず、大変な生活をしていたんだと思いました。二つ目は、平和記念式典のことです。平和記念式典で来賓の人、国外の人いろんな人たちが来ていました。さらに式典があった日はとても暑かったのに来賓の人の話を聞こうとしている人たちの中には、家族の人が被爆を受けた人もいて、今、原爆が落ちることはないけど、今でも原爆が落ちたことで悲しんでいる人がいることも分かりました。最後に私は、広島平和記念資料館と平和記念式典に行って原爆が落ちた時も大変で生活するのがつらかったと思うし、今でも、家族の誰かが原爆の被害にあっていて、悲しんでいる人がいるんだということが分かりました。